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牧師の想い

牧師の想い - 201608のエントリ

「負い目と人生」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/8/28 8:00
 † 責任という負い目。
  私達は「果たすべき責任」を負っている。日本人ならば当然三大義務「教育の義務 ・勤労の義務・納税の義務」を持つように,家庭では親としての義務、職場では役職にふさわしい務めをする義務がある。これらを喜びとするときに自由が生まれる。反対に嫌がれは桎梏(シッコク)となり重荷(不自由)になる。全ての人の人生は、進んで十字架を負えば軽く前途は明るい。十字架を避けようとすれば、常に十字架に追いかけられ自由を失ってしまう。もっと悪い場合は、関わりを断ち個人主義的な籠城にこもる。クリスチャンになってもこのような現象は襲ってくる。私達は御言葉の光りに照らされていないと、暗闇が追いついてしまうのである。「「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい」ヘブル3・13)平凡で大切なことは日々に、神が初めとなり、御言葉が、祈り(デボーション)が始まりとなることだ。そうすれば私達の負うべき責任を軽やかに背負って明るく生きる事が出来るだろう。

 † 引き継いでいるもの。
  私は家族から引き継いでいる気質を明らかに持っている。とても善いものも、そうでいものも内蔵している。父も祖父も道義心が高く正邪の区別を明確にされる人達であった。同時に憐れみ深い一面を持っておられた。聖書には民族の血筋が克明に書かれているが、誰が先祖であるかが重要とされる。私も自分の先祖をないがしろにはしない。今日迄の主なる神の善くして下さったことの背後には、先祖も含まれていると思うからである。それと共に、主イエスの血潮の潔めが、私の先祖に及んで罪を潔めて下さるように、ネヘミヤのように祈る。それは日本の民族の犯した罪をも含めて、主イエスの血潮を仰ぎ求めることである。私が、今存在すると言う事は限りない関係性によって成り立っている。それに対して、私が正しくし理解を深めるとき、執り成すという負い目を必然として感じるのである。このようにして、主イエスを仰ぎ見ることは幸いなことである。
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「負い目と人生」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/8/21 8:00
 † やり直しの必要。
  誰でも思うであろうことは、翻ることが出来れば、あのこともこの事もやり直したいと心底願っていることだ。小学校5年生の通信簿に先生の嘆きの言葉が書いてあった。「努力すればもっと伸びるのに残念だ」この年代で勉強よりは遊び放題に生きていた自分を思い出す。家で勉強らしい勉強をしなかった。確かに、このことは後遺症として私に現れてきた。自分の小ささ、世界観の狭さとして感じられてきたのだ。「努力が足りない」これが私の負い目である。手の届かない学問の道を回復して行く道は、良く聞き、よく学び、努力する独学の道である。幸いな事は聖書の真理に道が開かれたことだ。知り尽くすことの出来ない唯一の神に真剣に向き合えたことが、あらゆる分野の知識に向かわせ、努力すればするほど、無知が変えられ100倍にまで広げられたと感じる。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」ピリ2・13)私の今日は「努力が足りない」という負い目を、恥ずかしくない生き方に切り替えた結果のフルーツ(実)だと思う。

 † 忘恩を恥じよう。
  聖書の世界は、西洋ではなくて東洋である。キリスト教は西洋の宗教と言うが、聖書は東洋を土俵としている。ユダヤ人が日本に来ると驚かれるという。それはあまりにも日本人がユダヤ人の気質と習慣が似ていると感じられるからだという。聖書には「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」詩103・2)これらの言葉は、日本人には非常に親しみやすい。私達は「義理・j恩情」をないがしろにする人を当然として卑下する。義理を忘れ、恩を忘れるような者は正常な人間ではないと。聖書の全巻を貫いている思想は「神の義」である。主なる神は、私達を断罪し滅ぼし尽くせるのに、憐れに思いご自分の独り子を私達の身代わりに十字架に断罪されたのだ。この恩義を忘れて信仰はない。聖書が求めているのは、第一に忘恩の悔い改めである。第二は主なる神と御子イエスへの礼拝と感謝である。その次に自分の問題や必要を祈るべきである。私達の忘恩はあの人、この人に及んでいる事も忘れないことだ。
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「負い目と人生」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/8/14 8:00
 † 開かれた事への負い目。
  私達の歩みのすばらしさは「日々に新にされている」2コリ4・10)と言うことにある。そこには私達が主イエスを求めている現実がある。御言葉を慕い求めている現実がある。「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」詩119・130)悟りをあたえるとは、霊の目が開かれると言うことである。主に従う者には日々に真理に目が開かれるという事が起こる。ここで大事なのは開かれた真理に自らを従わせるこが「負い目」なのである。開かれた真理の要求に答えることなくしては「日々に新にされる」と言う実を結ぶことはないからだ。このような信仰生活をどれ程の人々が求めていることだろう。ただ、神の御心が正しく述べ伝えられている限り、そのようになり、日々に成長する兄弟姉妹で満ちることを信じるのみである。

 † 身近な変化にたいして。
  「かの川、かの山」懐かしい故郷に帰ると、徐々に変わって行く環境の変化に寂しさが募ってくる。懐かしいおじさん、おばさんが今はもうおられない。裏山の畑は植林された森に変わり、家の軒下まで、猪、鹿、猿、狸、狐それに熊も姿を現すと言う過疎の現実を目の当たりにした。池の鯉まで全部、野鳥やイタチに捕られてしまって何もいない始末である。年々に廃屋が増えて行くことを見ることは、地元に生きる方々には、この上なく寂しいことである。子供の声が村中に響きわたっていた自分の子供時代が黄金時代の様に思える。働き場のない地域は若者が留まらない。そして勢い過疎化に繋がる。こういうことは個人の問題では解決しない。聖書的に考えるなら、地域の連帯と活性化のための交わり、可能性への挑戦的行動が求められる。村を出て生計を立てている者には、負い目を感じる。このような時代の過疎の村に、生き残りの道を開く誰かが起こることを祈る。
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「負い目と人生」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/8/8 15:30
 † 過去という負い目。
  私達人間は、過去による今を生きている。過去は幸いにしてキリストを信じる信仰によって変えられる幸いがある「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」2コリ5・17)しかしながら人間は過去がある事によって苦しみの原因を持っている。人間が上手く行かない、即ち心理的な病理が横たわるのである。今日の難民と言われる何百万もの人々には、拭いきれない苦渋の過去を引きずって、今を生きておられるわけである。民族や宗教に関係なく、人として心因的に受けてしまった辛い負い目は計り知れないものがある。主イエスは「我に来たれ、我汝らを休ません」と語れる唯一のお方である。永遠の生命の価値感から、完全な愛と神の義の価値感から、人間ではぬぐいきれない痛みと負い目を、完全に克服させて下さるのである。ハレルヤ!

 † 負債を持つ心。
  幸せに生きられない原因は「心」にあると言って過言ではない。心こそは、神に似せて造られた人間の本命である。聖書は言う「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」箴言4・23)このところでは、罪と汚れから心を守れ、誘惑を赦すなと言う事である。使徒パウロが、心の潔さによって神の臨在に入れられていることを述べている。これこそが「生命の泉」を湧き上がらせている「心」なのである。私達が不注意な安易な心の生活をしている時には、主イエスの心と私達の心には、大きな距離が出来てしまうことが起こるのである。私達は命じられている「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」ピリ2・5文語)この次節には、キリストの心とは何かが書かれている「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」6節)」、これと同じ「心」を求められている。神が神の似姿である人間に当然として求めておられるのだ。私達は、この負い目を勇敢に、心に課して生きたいものだ。
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