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牧師の想い

牧師の想い - 201605のエントリ

「神の国を生きる」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/5/29 8:00
 † 神の国と信仰の刷新。
  神の国(神の王国)には敵対する暗闇の王国(悪魔の王国)が存在する。私達ビンヤードはこの聖書の提示する現実に立って、キリストを理解し聖書を理解して行く。そこで私達はキリストのなさったことをするのであり、当然、使徒達が行ったことを行うのである。19歳の時、合同の聖会が開かれ証詞を頼まれた。その頃、新興宗教がすさまじく勢力を拡大しており、キリスト教界は当時も1%と言われていた。証詞は「教会には悪霊に勝る力があるのではないか?」それで、使徒4・29-31「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。・・・・彼らがこう祈るとその集まっていた場所が震い動き、聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした」を引用した。集会の後、牧師が言われた「神の言葉が完成した現在、しるしや不思議は終わったのです」ああいう証詞はしないように。しかし、心に決めた「信仰には悪霊に勝る力がある」と祈り続けよう。・・・・27年後の1986年、聖霊に刷新された。暗闇の王国と戦う、神の力ある福音の中を歩み続けられているのは主の恵みである。

 † 神の国と祈り。
  祈りは「人間の熱心」に数えられやすい。しかし、そういうものではない。好き嫌いで片づけられるようなことを聖書は言っていない。現代の教会で最も顕著なのが「祈らない信仰」である。祈らないと言う事は、祈らない代わりを持っていると言う事になる。「祈っても祈らなくても、変わらない」と自己弁護をする尊大な自分がいる。神を畏れないで、自分の見解を優先しているのだ。それは祈る習慣の欠如を物語るものである。そのために都合の良い「祈らなくても」信仰が出来、奉仕が出来、証詞が出来る世界にはまり込むことである。神は祈りを聞き、答えられる。「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる」1ペテロ3・12)神の国は祈りに答える主なる神のお働きである。私は早天の祈り(叫び)を21年間続けてきた。2年前、シアトルで出会った預言者が、私に主の言葉を伝えてくれた時「主イエスは私を見、祈りを聞かれている」ことに驚いた。今、祈りを優先する信仰者に成れ。神の国の現実は、その祈りへの応答として広げられ実を結んで行くものだ。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい」マルコ14・38
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「神の国を生きる」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/5/22 9:00
 † 神の国の働き方。
  主イエス様の成されたいことが「神の国」である。このことが中心にならないと、教会の働きに神の国を見ることが難しくなる。かつて、ジョン・ウインバーが「多くの教会がワーシップを取り入れ聖霊の臨在とお働きを求めているが、彼らは礼拝の構造(形態)を以前のままにして変えようとしないので、聖霊のお働きが留められてしまう」と言う意味のことを言われた。聖霊の成されたいことに従うなら、三位一体の神が礼拝の主役になる。しかし、主イエスの成されたいことがわからない(聖霊の思いがわからない)教会は、神の国のしるしと不思議、リアリティを招き入れることは難しい。要するに語るほどに、教えるほどに何も起こらないのである。一つは聖霊というご人格に親しんでいない人に指導され造られてくるし、人間のパフォーマンスを重視したり、礼拝を見栄えのあるものにしょうとしたり、何かの理想を求めたりして、知らずして聖霊のなさりたいことから外れて行く。メッセージは別として、人間の言葉が多い所は「人に向かっている」聖霊による神の国の働きは「主イエスの成されたい」ことに向かう必要がある。

 † 神の国の現れ方。
  沖縄のコンベンションホール(大会場)でビンヤードのセミナーが開催され、私は証詞をするため赴いた。翌年、私の証詞を聞いて、感銘を受けたという信徒の方から「是非、私達の教会に来て教えて欲しい」と頼まれた。当時その長老教会では、今まで聖霊について教えられたことがないと言う事だった。牧師先生の許可があれば伺います。と言うと、すぐに大丈夫です来て下さい。と言う事になった。私の求められていることは聖書から聖霊の教理を教えることではなく「聖霊の現実」をデモンストレーションすることであった。私の興奮は「はたして聖霊様はどのようにされるのか?」と言うことにあった。聖霊についてなんの予備知識もない信徒の皆様に聖霊様はどうされるのか?・・・・しるしや不思議がどのように現されるのか?方法があるわけではない。ただ、あるとすれば私の受けたこと、私を通して見させて下さった聖霊のお働きが「ここでもあること」を期待する。ただそれだけである。教会の信徒の皆様にお会いして、すぐに親しくお交わりが出来る幸いな時となり、素直に聞き素直に導きに従われた。主を待ち望むと、実に聖霊が臨まれ、しるしと不思議が行われた。その中には末期の癌にあった母親が癒やされ、翌年の夏「沖縄のアイスクリーム」が感謝のしるしとして可児に届けられて、主イエスを崇めたのである。
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「神の国を生きる」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/5/15 8:00
 † 私はあなたと共にいる。
  「わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた」使徒18・10)これは使徒パウロがコリントでの宣教を励ます主イエスの言葉であった。新約聖書は、イエス様を「インマヌエル」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である)と、言って始まりを告げている。新約聖書で限りなく語られる「主は共におられる」ことこそ「神の国」を言い表しているのである。言い換えるならば、主イエスが語り、行われた愛の業と憐れみの業、即ち「悪霊を追い出し、病を癒やし、傷ついたものを癒やす」これらを含めた罪からの解放を、私達も共に行うことに招かれている。このように「神の国」は現実的な福音なのである。その根源に「神は、私達と共におられる」事実がある。パウロはコリントでの迫害の下で、実感的には神が共におられることがわからなくなったようである。切迫した精神状態にあったのだ。だからこそ「わたしがあなたとともにいるのだ」と語られた。神の国のリアリティは2千年前も今日も、同じ土俵の上にある。

 † 神の意図と人間の意図。
  主イエスの衣がこの世のものとは思われないほど白く輝いた。ルカ9・29)主イエスはお受けになる栄光を先取りして、そのお姿を現された。この地上に「神の国」があるのは、主イエスの信仰と従順(十字架と復活)によって主なる神の栄光が実現したこと。しかも一回的に済んでしまったのではなく、信じる者と信じる者の間に神の栄光である「神の国」が現される。これが神の意図されていることで使徒達が証言している。しかし人間の意図は、時代の風潮に対峙し、自由主義や近代化に保身的な防衛を余儀なくされて生まれる。それで根本主義的信仰に留まり、聖書の無誤説を唱える程になった。権威は「神のみ」にある。と同時に、聖書の字句に同等の権威を求めたのだ。「神の国」も「神の民」も一つであることを聖書は言っている。しかし、おかしなことに、クリスチャンとイスラエルという「二つの民」に分ける意図された解釈があり、今の時代(終末・恵みの時)を複雑にしている現実がある。しかし私達は日々に聖書が正しく解釈される真理の光りの中に留まり、更に神の国を生きる者である。
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「神の国を生きる」(4)

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執筆 : 
細江 和弥 2016/5/8 8:00
 † 愛の関係(リレーションシップ)
  「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです」ヨハネ15・10)母親の愛を感じない子供は、母親は他人と同じくらいに希薄な関係に生きる。私達人間は悲しいことに、愛されないと愛がわからない。愛されなかった子供は安定を欠いた成長をしてしまう。そして、もっと悲しいことは母であれ、父であれ、健全に子供を愛する愛を持ち合わせていないことである。父として,母として「愛している」つもりが、限りない欠けを持ち合わせている。こういう現実を見つめないと、終わりまで間違い続ける「愛」の中に生きてしまうのである。親である父母に対して緊急の問題だと思う。主イエスは「父の愛の中に留まっている」ために「父の戒めを守って(いる)」ことを宣べられている。聖なる主なる神が喜ばれないことを避けることが「戒めを守る」ことである。それは、父なる神の限りない愛の中にいるからである。私達が、どれ程に主イエスに愛されているかを知って、初めて人それぞれを愛せるのである。こうして親子の間に神の国が現れることになる。

 † 神の思いと私の思い。
  神のお働きをデモンストレーションする。と聞かされたとき、誰が?・・・・と、私が驚愕したのは、この事である。普通の人間が、質の異なる聖なる神様の御力を「実演する」とは、あって良いことなのか? それまでの私の神学には書かれていない言葉であり、行為だった。そして私は実演を目の当たりにした。霊的なパラダイムシフト(大転換)を要求された。天動説が地動説に切り替わる大変化と同じであった。要するに「目から鱗が落ちた」のであった。私もやがて経験することになった。父なる神の思いは主イエスにあって現されていること。昇天された主イエスに代わって聖霊なる神が主イエスのみ思いを、私達の思いに知らされること。私もそれだからこそ、デモンストレーション(実演)が出来るのである。むしろ、私の憐れみなのか、聖霊の憐れみなのか区別がわからないけれど、私の心(意思)を伴う宣言(信仰)で、歩けない人に歩けと言い、耳の聞こえない人に聞こえるようになれ、と言う。すると、そのようになった。私のような者に、答えて御業を行われる偉大な神のゆえに。神の国はこのような私達を通して見られるのである。
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「神の国を生きる」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/5/1 8:00
 † イエス・キリストの信仰を信じる。
  「イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」ロマ・22-23)「神を」目的格属格として「神に対する信仰」として訳されている。権威ある聖書と言われる「キング・ジェームス訳」では(Have faith in God.)となっていて「神の信仰を持て」と主格属格とされて訳される。「神の国を生きる」実際のクリスチャン信仰にとって大変重要な意味があるとおもう。「イエス・キリストを信じる」ロマ3・22)「イエス・キリストに対する信仰」なのだが、主格属格では「イエス・キリストの信仰(真実)」となり、「主イエスの信仰(真実)」を信じる、私の信仰となる。信じるのは主の能力のみならず、聖さ、その品性をも伴にして信じる具体性を持つことである。私は、主の真実(信仰)によって救われる信仰を告白する。極論すれば、飾り物のような対象物(キリスト)として信じない。神の国を現される主イエスの信仰を信じているのである。

 † 神の国の現れとは。
  f)「我々は、神の国を価値とする。我々は、神の国の現在における満たし聖霊のカある臨在を求め、聖霊の賜物を通してのミニストリー、神のカや不思義をしるしとして行動することを目標としている。」Vineyard 教会連合信仰告白「我々の価値」にある神の国の理解である。使徒行伝の在り方と何ら変わりがない。私達ビンヤードは「聖霊の第三の波」と言われ、著しい神の国の現れ(しるしと不思議)を全世界に広めることになった。私の経験の一つを紹介する。カナダ「トロント・エアーポート・ビンヤード」に驚異的な聖霊の降臨があり全世界に知られた頃、14名のグループのリーダーとしてトロントの教会に集った。私はビンヤードの牧師としてミニスターに選ばれミニストリーを行った。外国のグループを含め何千人も集まっていた。一人の韓国人女性のために聖霊が導きと言葉を下さり、この女性は解放され聖霊に満たされた。香港の青年はトロントの多くのミニスターの祈りにも何の変化も見せていなかったので近付いて主の臨在を求めた。すると激しい勢いで後に吹っ飛んだので賛美と笑いで騒然となった。すると何人ものミニスターが祈ってくれと列を作ったのである。聖霊が伴に働かれ2、3人が一緒に倒れたりして、笑いと喜びと楽しみの時であった。
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