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牧師の想い

牧師の想い - 200805のエントリ

「伸張する魂」 (5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/5/31 12:04
† 共通するもの。
  バッハやベートーベンを聴きながら思う事がある。幾世代を超えて最上位の賞賛を譲ることがない事だ。初めて聞く者にも,これから生まれてくる者にも同じなのだろう。一方,私達にとどいた福音はあらゆる時代を経て変わりない祝福を与えている。ここに何かしら共通するものを感じる。然し,私達は静まって日本に訪れている季節を考えなければならない。100年に及ぶ福音宣教の現状は1パーセントのハードルを越えることがない。然し,迫害もなく,全く自由そのものに生活が保障されている。今,日本人は世界から見聞きしている天地異変に対しても危機感に乏しく世俗の喧噪から目をそらして神を求める様子もない。然し,どのような時代状況であろうと福音宣教に成功する共通の方法がある。閉塞した時代に,いつも神はリバイバルの器を起こされた。神のみに望みを置き,真の幸福はキリストの救いであると,全き信仰を持った魂である。そのような一人の魂が教会に起こされると,聖霊の火が燃え上がる。そのような魂が真の言葉(メッセージ)を持つのである。あなたがそのために召されたのではないだろうか?
   
 † 魂の献身。 
   聖書では,魂は心とも訳され「内なる人の世俗的な行動に制限されている」ものを指している。「霊」は人と神とを結合させるものである。さて,魂は私の「世俗的な行動」に影響(制限)されていることを,逆手にとって影響されない立場を取ればいいことになる。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」ロマ12・1)神に捧げる人生は,献身の生き方である。これこそ魂の成長に必須なのである。全人格的な献身がされていないためにクリスチャンの成長は阻まれているばかりか,混乱の集積回路の様になっている。世俗の仕事の中で,人間関係の中で,多くの不変の原則を学ぶ事によって魂の成長(伸張)は生まれる事は事実である。然し,それだけではクリスチャンには不十分であることを理解されると思う。礼拝を守るということは,主なる神に対する必須の姿勢である。礼拝における教会へのメッセージは,信徒レベルのセルで分かち合われ,一人一人の実際に適用されて成長につながるのである。




  
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「伸張する魂」 (4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/5/24 11:01
† 祝福される者。  
私達が生き続けたいと無意識に今生きているように,私達は祝福される事を第一に願って無意識の内に生活している。彼造物である人間が神の祝福を求める事は埋め込まれている本能なのである。祝福されるためには,それを埋め込んだ創造主の不変の法則が掲示されている。豊かになったものは貧しい者を支えよ。ということである。自由資本主義や競争原理主義に在る経済機構の中では,持たない者から,貧しい者から富を積み重ねる事を当然としている。然し,このような機構の行き過ぎと横柄な国家や企業にたいして神の怒りが下る時がくるのである。また,もう一つの重要な法則は,貧しい者にも出来る祝福の道である。祝福されたい者は什一を神に帰すことである。生ける神は祝福を求める人間の真の姿を見ておられる。キリストはレプタ2枚を献げたやもめに驚嘆された。200円程の献金だったが彼女の全財産だったことを見抜かれ感動されたのだ。マルコ12・43)生ける神は祝福すべき者を探しておられるのである。あなたの魂は祝福を求め,経済や人生に祝福をもとめている。それならば生ける神の御前に,この二つの法則を無視してはならない。
  
 † 世を凌駕(りょうが)せよ。
  クリスチャンは「世をしのげ」(世に勝れ)という意味である。この世に生きるという時には「この世」が大事であって,そこに「生きている」という私が第ニのように受け止められる。クリスチャンの中でも第一に「この世」そして信仰が続くと受け止められていないか?。この図式は自然に(肉として)産まれた人間は誰でも構造的に位置づけられている感覚と知るべきで,この場合「私があって信仰がある」という順番になる。しかしキリストを信じる者はパラダイム(世界観)が逆転したのである。この世ではなく「創造者なる神」が第一であり,次にあなたが第ニである,そしてこの世はあなたの後に続くものである。私達に与えられている信仰,すなわちキリストにある者は,世を凌駕した者,雄々しい魂の勝利者なのである。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」マタイ10・28)信仰とは魂の伸張として現れるものである。主イエスは「・・・・・勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」ヨハネ16・33)とあなたの勝利を支えられる救い主なのだ。
 




  
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「伸張する魂」 (3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/5/17 17:21
† 実際と客観性のバランス。 
  日本の社会を外から眺めると,とてつもなく異常なのだそうだ。私達はこの島国に住んでいるので,さっぱりわからないで居ること請け合いなのだ。誰でも自分のしている事,生活していることが当たり前になるが,それと同じである。私はドイツに行ったことがないが,日本との違いには唖然とするものがあるそうだ。電車に乗って降りると改札口がない。乗客はそれぞれのキップを買って,掲示板に示されている案内に従って乗り,そして降りる。車内アナウンスもなし,全て自己責任で行動することになっている。このように改札がないにもかかわらず「キセル乗車」はほとんど無いそうだ。日曜日には町内や学校の行事は一切無く「安息日」として休日をゆったりと過ごす。自己責任で行動し,互いの人権を尊重するモラルと習慣が身についている。と言うことだ。ところが私達はドイツの国民から見れば,管理されることに馴らされ,人権を侵されることを仕方がないこととし諦めてしまっている国民である。日曜日にもクラブ活動や,地域の活動にかり出され「休む権利」もなく,人権を侵害されている訳である。これが今日の立派な日本人である? あなたの客観性はいかに?

 † 上に伸び下に根を張るバランス。
   教会のすばらしさは,人間の全てにわたって評価するところにある。成績や能力(賜物)だけを見ない。私達の主なる神は「・・・・・人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」1サム16・7)人格や品性を宿す魂の値打ちを計られるのである。私達クリスチャンも学力において,能力や技術を向上させる事において努力を惜しんではならない。知恵においても向上する事を求めて学び,倣う必要がある。これはまさに地上に現れる果樹の成長に似ている。見事に枝を張り,花を咲かせ多くの実を結ぶ。「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。」マタイ12・33)ここには「木」「実」が関連づけられている。ここで木は「みえない根」の健全な成長におかれている事を私達は知る。「わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。」エレミヤ17・10)私達,人間においては,まず第一に生ける神の前に「心にある」「思いにある」魂のあり方が,挙げられている。これはみえない根の部分である。これこそは,あなたの限りない値うちである。「地に住み誠実を養え」詩38・3)主は続けて言われる「主はあなたの心の願いを叶えて下さる。」38・4


  
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「伸張する魂」 (2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/5/10 11:46
† 母の愛の深み。
  本日は母の日である。母の恩恵を受けないで育った者はいないはずである。とにかく今自分がここに居るということは母のお陰なのだ。私達はよく自分の不甲斐(ふがい)なさを親の性にすることがある。自分の幼い時に私に○○をさせてくれていたらとか,私の願っていた道に行かせてくれていたらとか,もっと金持ちだったならとか,色々である。しかし特に母親は最善を考え出来る限りの事をしてくれたことを知るべきである。母親の心をどれほどあなたは知っているか?あなたに対するありったけの心の思いを知ったならば,泣き伏さずにはおれないであろう。母はあなたの先人として,多くの試練に苦労をしながら戦い,人として親として練られ,成長してきたのである。多くの人情に学び,多くの失敗に学び,愛を伸張させてきたのである。母は多くの場合,自分の払った犠牲を口にしないそんな寡黙(かもく)の大人である母を,あなたは軽しめてはならない。「自分の父をあざけり、母への従順をさげすむ目は、谷の烏にえぐりとられ、わしの子に食われる。」箴言30・17

 † 感謝する深み。
  聖書において「父母を敬え」と言うことは命令である。全ての人がこの御言葉に耳を貸すならば,日本は変わり,世界も変わるだろう。倫理道徳の根幹の始めに置かれている事柄である。もちろん神を畏れることが第一である,それが欠落している社会では,いくら人間の道義だと教えても「ぬかに打つ釘」で在って,善いことも人の身につかない現実がある。「感謝する」という事柄は人格の一部として自然となるべきである。感謝が人格に定着していない人は,会ってみればすぐわかるものである。感謝が意識に定着していない生き方をしている人生は,最も貧しい人生の中にある。さて,人間とは悲しいものである,教えられて,教えられるとおりになるのは幼い時だけで,あとは自分の生き方をしてしまう。キリストに出会い罪を赦されたならば「生き方」を変えよ。主の御言葉を思い巡らし尊大な自分と戦え。主の教えが自分の骨身になるまで格闘せよ。そうすれば感謝を,あるいは喜びを人格の一部とすることが誰にでも出来る。だからそのために教会がある。主の恵みを奪い取ることによって感謝する人格が伸張するのである。
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「伸張する魂」 (1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/5/2 14:17
† バランスの良い成熟。
 伸張という言葉が,私達には「神にも人にも」という意味に置き換えられる。上にも横にも大きくなることは安定したバランスをイメージさせる。十字架のバランスを拡大していくことも教会の使命である。縦軸は天に向かう,主なる神との交わりであり,横軸は福音による世界宣教である。教会はそのように「伸張」して行くことを確信する。また,私達の魂も伸張し成熟してゆく事を信じる。それは,そうでなければならないからだ。魂は言うまでもなく見えるものではないが千差万別である。アベルのような魂と,カインのような魂が在る。12使徒にはそれぞれの魂・個性があった。使徒パウロのような魂とイスカリオテ・ユダのような魂がある。私達が歴史を省みるならば,近づき預かりたい人物を近代,近世,中世(古代)に数え切れないほどに発見するだろう。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」ヘブル12・1)・・・・・社会というものが「個」を重視する時に成熟した社会が生まれる。同じように私達の教会が個の魂を大切に成熟に導く事は,真のキリストの身体を築く事になるのである。

†  理に叶(かな)う。    
 改めて机にでも座って学んでいる時は自分を忘れている。良いお話を聞いて納得し,自分にとって当然のことと信じることが出来る。こういう学びというものは「お利口な自分」が前面に出ていて,現実の自分は陰を潜めているのである。では,現実の自分とはどこにいるのか?それは遠慮も体裁(ていさい)もないところでの自分である。それは教会の外であり,家庭や職場であり,それ以外のところかも知れない。人を気にして,お利口にしている必要がない所で「理に叶った」態度や言葉つがいができれば誠に偉大な人である。使徒が命じる「ただ,キリストの福音にふさわしく生活しなさい」ピリピ1・27)は,そういう意味である。教会では「ありのまま」という自然体を重んじる良さがある。お利口ぶって非現実的な自分を演出(パフォーマンス)する必要はない,ということである。それは神が畏れられ,あがめられている中で実現される真の自由である。しかし教会の「ありのまま」という潔い交わりの園の中に,肉と世の霊が巧妙に入り込もうと機会を窺(うかが)っている。私達が教会の外で福音を生活しょうとせず,その「ありのまま」を教会に持ち込んでくるならば,敵は容易に聖所に進入することは可能である。教会の危機に気づいて互いに祈り合おう。
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