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牧師の想い

牧師の想い - 200710のエントリ

真理には私が問題です(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/10/28 9:10
† わけありの作品。
 よくメールの中に「わけあり新製品特価のご案内」というものが送られてくる。色んな商品があって品物には異常はないが「わけあり」なのである。確かに「買い」であるが,ある人は疑う人もいるらしい。保証もしっかりついているので問題はないと思うが,「わけあり」にこだわればやはり買はなくなる。さて,私達のイエス様は,そういった,わけありの品物を買われると思う。なぜならば,わけありの人間を愛して受け入れてくださるからである。イエス様にとっては全てが,不良品か,わけあり品でしかないからである。人間は優れた完成品を造り出して大いに世界を豊かにするが,人間としては「わけあり」ナノだ。私は小学5年頃に,自分が,わけありの欠陥だと気付きだした。ある人には,なんでもないことがどうして自分には不安なのか? また,とても良いことだと分かっているのに,出来ない自分に失望してしまった。 「少年よ大志を抱け」という言葉に,大志を抱けない自分を知って失望した。それで自分は「わけあり」だと気付いた。19才担って,イエス様に出会うまで,わけありの自分に悩み,苦悶した。真理にかけ離れた私でしかなかったが,イエス様は道となってくださり,生命となってくださって真理の中に入れられた。そして今でも,自分が「わけありの人間」であることを,片時も忘れることはない。「今あるは,ただ主の恵みあるのみ」だからである。

†  主客のはき違え。
 主客の混同。とはよく言われた言葉であるが,一般的ではないようである。しかし,霊的には非常に重要である。私達は「主」と呼ぶが,言うまでもなく「私のご主人様」と同じ事なのである。私が助けを必要とする,自分の足らなさを意識するような時は,盛んに「主よ,主よ」と呼ぶのではないだろうか? 「主よ」と呼ばない時,無意識に生活している時,私は下僕の姿をしているだろうか? 私達は,生き生きとした本当の自分が,何処においてそうなるのかよく分からないままで生きているようである。なぜならば主イエス様を「我が主我が神」として迎え入れていない状況が余りにも多いからである。 たとえば,トマスが,復活の主イエスとの会合に居らず,他の弟子達の復活論議に,ますます懐疑の念を深くした時,復活の主はトマスに現れて,ご自身の身体に触れよと言われた。その時トマスは「我が主我が神」と初めて全面降伏をした。明確な全面降伏が私達クリスチャンに必要である。そこに初めて主に仕える喜びが生まれる。この降伏は献身ではない,クリスチャンのとるべき必然性である。私達の不徹底性が結局,主客の混同を平気で行ってしまうのである。日本の社会における霊的問題は教会の外にあるのではなく,クリスチャンの私達の中にこそあると,見なければならないであろう。
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真理には私が問題です(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/10/21 9:10
† 信じられない私。
 「信じていました!」と言ったのは,昨年「信じられない!」と言った,プロ野球日本ハムのヒルマン監督である。昨年に続いてリーグ優勝,そして日本一を競う戦いへの出場権をも勝ち抜いた。専門諸氏によると,このチームは特別な選手が居るというわけではないが,チームが心を一つにして闘う志気のあることが,強さに現れている,のだそうだ。監督は昨年,チーム力を信じられなかったのだろう,しかし今年は信じておられたのである。さて,私達も教会生活を通して,信じられない自分が,信じられる自分に変えられて行く課程に置かれている。信仰とは教条的に信じるのではない。自分という生身の人間である私が,御言葉の真理に吸収されて信じられるである。大事なのは,私に真理を引き寄せるのではなく,神が真理に私を引き寄せ,同化されることをキリスト信仰というのである。今あなたに信じられないことがあることは正常である。それは聖霊様の働きががあなたに向かうことである。非常に大事なことは信じられない自分を真摯に受け止めることだ「主よ。私にはとても信じられません。しかし主よ,あなたが信じられるようにしてくださることを心から感謝いたします。」と,正直に自分を現すものが,神の信仰に成長するのである。

†  外れない態度。
 宝くじには縁がない者ではあるが,買う気にもならない。その心は「外れ」ばかりが当たるからだ。外れが当たることを繰り返していると,期待が遠のくのは仕方のないことである。この作用は,その人の理性的な一部として定着してくる。私が宝くじに関心がないのは私の理性的な作用が働いているからである。このようにして人生で体験する事柄が,私を形作るのである。これが,その人のパラダイム(世界観)となる。日本人の世界観は大方は消極的,否定的であると見られている。これは歴史的,地理的,思想的な背景によってDNA化(潜在化)されているからだ。まず,私達の出発はそういう自身を認める所にある。そういう自身を知らないと,肯定的な理想を描いても,常に「外れる」ことを体験してしまう。キリストが「私は道であり,真理であり,生命である」ヨハネ14:6)と言われ,信じるクリスチャンを鋤き変える(私をひっくり返してキリストの内容にされる)のだが,私の世界観(理性的な視野)が,旧態依然として居座って居ると,神の意図が反映されないのである。・・・・・これからは「どうして,このような私が在るのか?」と主に問うべきである。聖霊はあなたを「神に造られた者」である健全な原始の人間に造り変えることがおできになるからである。
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面白くないところに(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/10/14 9:10
† 隠れたところで出会う。
 「・・・・・そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」マタイ6:,4,6,18)祈りと施しと断食は霊的行為の最高峰である。そのことにイエス様は触れられたのだが,人に知られず隠れるように行え「そうすれば父なる神が報いて下さる。」と教えられた。これは理論ではなく聖なる実際である。人間の本質は悲しいほど汚れている,自分を人々の心に売り込むことを,神の聖なる御名の立場と巧妙にすり替える。イエス様は霊的と思われる人々の中にこのような売名的な行為を見られたのである。ある人々にとって「自分を隠すこと」を苦痛と思う時期がある。何事も自分が,人々の心の中になければ,自分が不安定に陥り,そうでないと極度に「面白くない」のである。これは幼子的な心理状態であって,早く卒業する必要がある。マタイ 6章には,三度「隠れたところで見ておられる」と記される。私達が自分を低くすればするほど,自分の行為を人々の前に隠せば隠すほど,高く上げられ,報われるのである。私達の主は,そういう真実なお方なのである。 

†  祈りの奥義。
 何が私達を価値づけているのか? かの著明なスボルジョンは祈りであるという。祈りは,私達自身の無価値を教えるからだ。彼は次のように見解を述べる「もし神が,私達の祈りなしに,恵みを与えられるとすれば,私達は決して自分の貧しさを知らないであろう。」言葉を返すと,祈りなくして,私達が恵まれており,不足のない生活をし,楽しさも,希望にも満ちている事は,正しいルートではないと言うことだ。・・・・・祈りなくして「富めるクリスチャン」である現実は,自分が本来神に依存する空しい被造物である事を忘れてしまったのである。現代クリスチャンの最も「面白くないところ」はここであり,警鐘が鳴り響いている。祈らない理由は「貧しくない,困窮していない」からである。しかし,これは違う,祈らないから貧しさを忘れ,祈らないから自分の虚しさを忘れているのだ。健全なクリスチャンは自分の虚しさを告白し,貧しさを訴え,常に主なる神から供給を求める。そうだから神によって強くされて偉大な業をする。また,神によって富むのである。・・・・・恵みの御座がある。そこには不可能がない。それは,膝がかがめられる,あなたの祈りの場所でなければならない。
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面白くないところに(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/10/7 9:10
† 自分の身分。
 新内閣は「背水の陣内閣」であると福田さんは言われた。前途悠々たる立場にはないことを言われたのである。時の流れに従って,突然風向きが変わってしまう,そして今までの環境が激変する。私の母方の祖父は村を率いる村長として貢献した人であったと聞く。しかし昭和22年の片山内閣の農地法改正で,大地主の立場は無くなった。これまでの庄屋としての身分は無くなったのである。こういった社会的な身分は体勢によって根本的に変わるものである。面白くもないこととはいえ,近代化の途上ではやむを得ない事なのである。問題は身分という精神的な捉え方である。教会も組織中心になると,信仰は組織の中の自分の位置が優先されるようになる。だから可児福音教会は形骸化を一切排除する。私達クリスチャンはキリストの生命に繋がる肢体として,脳も足も内蔵も皮膚も,競い合うことのない一つの生命である。聖書は「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです」1コリ 12:22)というのである。教会を組織として,あるいは人脈として見たり,政治的な「パワーシフト」で動くと見たりしていないか? そういう見方をする精神状態の自分になると,教会の面白味は即,あなたから失われるだろう。   


† 自分が自分を作り出す。
 「こんな私に誰がした」という流行歌が日本中を駆けめぐった時期があった。そこにはつらい社会へのやるせなさや,施政者への不満も含まれていたのであった。なるほど,自分は誰かのために「こうなっている」という被害者意識は案外誰にも沸き上がりやすい思いであろう。誰かとのせいで,生涯を駄目にするような事実のあることを,知らないわけではない。しかし,何よりも自分が自分を築くのだという,重大性を強く感じるのである。・・・・いつまでも変わらないで自立しないのは何故か? どうして聖書的な基礎が実行できないのか? そこには完全な自分への甘さがある。・・・・自分を崖っぷちまで持って行って飛び降りる信仰的行為ができない。甘さのために身につかないのである。誰の問題でもない,誰のせいでもない,自分の甘さのなせる業なのである。社会的に一人前で,選挙も納税もするが,霊的義務が果たせないことを是認するような自分が出来てしまうのである。これを真剣に「面白くない自分」と捉えるべきである。そして,それは自分が築くべきであって,けっして誰かのせいではないのである。
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