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牧師の想い

牧師の想い - 200708のエントリ

たといそうでなくても(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/8/26 9:00
† 御国の真実。
 「悲しみ尽きざる浮き世にありても日々主と歩めば御国の心地す」という聖歌の歌詞がある。信仰とは保証された希望に喜びを持ち力を感じるものである。希望の頂点に御国(天国)があるのだが,少しも悲観的でなく,あきらめでもない。クリスチャン生活は「日々主と歩む」ことを通して主の臨在の中に御国をかいま見る。それは信仰生活の至福というものである。しかし,近年多くの人が地上にありながら主の御霊に導かれ天国の輝く麗しさを観た人々が大勢現れている。これはヨエルの預言「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」使徒2:10)が大きな意味を持つ。そこには「終わりの日に」と言われている。主がやってこられる携挙の前には著しい聖霊の働きが現れ,各地で死人も生き返るしるしが起こる。そういうニュースを当たり前のように聞くようになったら,誠に主の来臨が近づいているのである。たといそうでなくても,私達は聖書に照準を合わせた信仰を注意深く備えなければならない。神が望まれるように「主の携挙に備え」また地上に激しく臨む「聖霊のお働きに備える」これがバランスのとれた教会の信仰と働きとなる。


† 世界を視野とする。
 「世界を視野とし,世界と交わり,世界に出て行く教会」これは私達の見つめ続ける教会像の第一に挙げている理念である。もし,この理念(言葉)がないなら,私達は語るべき言葉を持たない。理念として固定される時それは神に憶えらればかりでなく,可児福音教会のDNAとして,その体質に形成されて行くのである。私達が強い者ではなく,世の権力者,知者でもない(1コリ1:26-27)しかし,信じる者の愚かさを通して,神の愛と力は世界を変えることが出来るのである。たとえそうでなくても,世界を視野とするという事は,今立っている所から始まっているのである。言葉を代えて言うならば,立っており,置かれている所で信仰を働かせていることが世界に通じて行くのである。しかし,大きな事や,遠くのことを見て,今の現実を逃避したり,現実の不備に,不平や不満を口実にして怠惰であるならば,不的確な人とされる。そういう群れは教会としても不的確であろう。世界に出て行くほどの教会は愛と寛容を持って難事を克服している。だから成長するのである。
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たといそうでなくても(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/8/19 9:30
†   山を下りても。
 教会の頂上ともいえる聖会が,我が教会では春と夏のキャンプである。中高生は今年もすばらしい講師に恵まれ,初めて参加した若者が積極的に応答した。それは教会の全員が祈りを捧げて主の御名を呼び求めて下さったからである。私達にとって,これほど嬉しいことはない。同時に行われた青年キャンプでは,著明な講師のビデオを通してリーダーシップの学びが行われた。私も学びに参加したが,教えの強調点が明確で説得力があった。参加した青年の感想や決意表明を感謝し尊敬する。主は一人一人を豊に導かれるであろう。たといそうでなくても,聖霊は私達の知性に目覚めの機会を与え,主へのコミュットメントの重要性を全員に行き渡らせられた。感動の山を下って,普段の生活が始まったが「主に対して決断したことは,感動が冷え切ったにしても行動し継続する。」これが21世紀のリーダーなのだ。 

†  われ土方なれど。
 この3周年献堂記念日に,特別講師としておいで下さった滝元明先生が書かれたベストセラー「われ土方なれども」は,意図の中に「たといそうではなくても」という,強い信仰表明が隠されている。先生の真っ赤に焼けてほとぼしる信仰が,郷里,田舎での開拓自給伝道を決意された。その時に生活の糧を得るため土方としての重労働をされたのである。人というものは条件の良い事柄を選び,易しい事から始めようとする。しかし先生は重労働の土方であることを選ばれた。外見からすれば,見栄えのしない一介の労働者である。しかし,その中身は甦りの主であるイエス様の力と喜びとに満ちておられたのである。たといそうではなくても,先生の歩みは,日本の各地に福音を宣べ伝え,甲子園ミッションを成功へと導かれた。一介の土方なれど,その主の恵みによって「愛と熱血の伝道者」であり続け,日本の福音化のために尊くもちいられておられる。紅顔の少年ダビデを選ばれる神は,主を熱愛し,主と共に歩む固い決意を持つ者を愛される。「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです」イザヤ26:3
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たといそうでなくても(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/8/12 9:30
†  困難の意味。
 私達は平穏を求めるし,そのために努力を積み重ねている。しかし,生きている途上には問題は起こる。職場における仕事上の困難てあったり,家庭に起こる難しい問題であり,自己自身の精神的問題における困難,人間関係の困難が待ち受ける。クリスチャンは良く神は愛ならば,なぜに苦しみを与えられるのか?という。聖書は「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」ヘブ12:6)その目的は信仰の躍進であり,人生の飛躍である。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」ヘブル12:11)確かに,企業においても困難に直面し危機に陥りながら見事に克服し,強靱な体質に生まれ変わったケースは限りなくある。特に日本の企業はそう言った修羅場をくぐり抜けてきたのである。たといそうでなくても,試練は信仰に必要なのである。困難に直面することにおいて,祈りに向かい,主の御顔を仰ぎ求め,信仰に集中するのである。それによってしか神を知ることがない場合が多い。神の御業は不可能にたいして可能として現れることを望んでいる。

†  主よ来たりたまえ。
 私の信仰とは,いかなるものであるか?聖書の求める真理に忠実か?内的な変革をして成長しているか? 今,主の来臨を喜べる準備が出来ているか? 「主よ来たりたまえ」は水野源三さんの詩で,元コロンビア・ローズでクリスチャンになった湖美芳さんが賛美さたタイトルである。透き通った信仰は,崇高な詩となって表れる。今という現実に,主よ来たりたまえとあたかも恋人に逢う喜びにも似て待ち望んでおられる。たといそうではなくても,私の内に主こそ唯一の慕うべき御方であるという確たる位置を与えるべきである。現実に主のみ顔を拜したいという思いと,信仰のうちで主のみ顔を拜したいというのでは,どこか違うだろう。しかし,今この現実の中では,今に対するキリストの勝利の信仰を推進しなければならない。一人の悔い改める者を生み出すために教会は産みの苦しみを委ねられている。ただ,そうであっても,主にお逢いする喜びと楽しみが損なわれることはない。主よ来たりたまえ,と自らの顔が輝くほどに主を慕う喜びを持ち続け得ることを望む者である。
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たといそうでなくても(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/8/5 9:30
† 真実は裏側にある。
  表に現れている歴史は教科書に書かれている。しかし書かれる事のない裏側があって表に現れる歴史があることを思わせられる。私達の信仰は表面的には他の人々と区別のないように見えている。しかし,私達の一つの言葉さえも信仰を通して出てくる。信仰は隠れて見えないフィルターのように,言葉も,行動も,思いも,動機も潔くする働きをするのである。神の国はそのようにして現れ,そのような人々の集合である。そのような信仰が世界を作り変えることを,キリストは望んでおられ「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」ルカ17:21)といわれる。世界という表舞台は裏側の事柄にあまり関心を払わない。勝ったか負けたか,成功したか,失敗したか。表面上の事柄が大きく評価される。それが自由競争社会のよさだとされる。しかし,人間の真実は万民に公正な神の審きによって明らかにされるのである。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」1サム16:7)私達が地上で永遠に残る信仰の事柄にどれほどに忠実であったかが評価され,正当な報いが与えられる。それがクリスチャンに対する「神の審判である」この世で評価なき者が,天国で大きな評価を受ける現実が起こるのである。

† 主が来られる。
 今あなたは,主が来られても良いですか? 働き盛りの皆様,青年の皆様に,戸惑いはないだろうか? 聖書の信仰は「マラナ・タ(主よ来たりたまえ)」という一語によって特徴づけられていた。主が来られ,瞬く間に変えられて空中に引き上げられる携挙に,心が備えられていたのであった。この信仰は過去の産物だろうか? とんでもない。これは今日こそ最も現実的な信仰の内容となるべき観点である。たといそうでなくても,次の御言葉は重要である。アモ4:12「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」今日の私達にとっては,復活されたイエスに会う備えを意味している。現代のクリスチャンは神の事柄よりも,世界の事柄に中心が移っている。頭ではクリスチャンだが,どっぷりとこの世に浸っている姿である。十字架に死に,自分に死に,世に死んでいる。と言葉を信仰にすることによって,信仰が身につく(身を結ぶのだ)・・・・主が今来られても良い。という信仰に変わろうではないか。
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