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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「人生の技法」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/10/14 1:00
† 何もかも出てくる。
  聖書の中でも興味深い記事の一つは「もし吹き出物がひどく皮膚に出て来て、その吹き出物が、その患者の皮膚全体、すなわち祭司の目に留まるかぎり、頭から足までをおおっているときは、祭司が調べる。もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、祭司はその患者をきよいと宣言する。すべてが白く変わったので、彼はきよい」レビ13・12,13)である。腫れ物が全身を覆うことと、生肉が白く変わった場合に「きよい」とされた。幸いな人を聖書は定義する「幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は」詩32・2)しかし、咎を隠し、罪を告白しない時「・・・・御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」詩32・4、5)幸いな人となるために必要な事は、罪、咎を何もかも洗いざらい、さらけ出す事に尽きる。あたかも全身に吹き出物が現れるように,そうすれば「きよい者」と、主は宣言されであろう。

† とにかく繋がっている。
   ブドウの木はキリストで私達はその枝である。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」ヨハネ15・5)私達の問題は枝に繋がっている確信を何においているかと言う事である。主を信じている、祈っている、御言葉を学んでいる、と言うような感覚であるかも知れない。あるいは礼拝を守り、月々に什一献金を捧げている、と言うことかも知れない。これら全ては大切な繋がりの意味と内容を持っている。さて、主イエスが繋がるという技法をここで宣べておられる。第一、父が私を愛された様に私もあなたがたを愛しました。私の愛の中に留まりなさい。15・9)第二、その愛というのは私の誡めを守る事だ、私が父の誡めを守って父の愛に留まってるのと同じなのだ。15・10)第三、キリストに繋がっている証拠は、私達が「誡めを守って互いに愛し合っていること」 なのである。現在進行形で繋がり続けるために、主の教えを最善とする者でありたい。
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「人生の技法」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/10/7 1:00
† 身を避けて生きる。
   何事にも守られて生きる秘訣は何か? 聖書は「神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます」詩編36・7)と言っている。「御翼」とは、具体的な守りの覆いである。主イエスが語られた「わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」ルカ13・34)主なる神が「めんどりのように私達をかばわれる」のである。私達に対する主イエスの嘆きは「御翼の陰」に身を避ける事をしないで、自分を健康なクリスチャンだと思い込んでいることだ。人間であるということを世の中の尺度(基準)で計れば、何かに身を避けるべき落ち度など無いと思い込む。しかし、とんでもないことである。あの偉大なダビデが、なぜに神の御翼の陰に身を避けるのか?それは絶大な神の恵みを震えおののくほどに知っていたからだ。神の恵みがわからないなら、神の偉大さもわからない。神の偉大な御翼の陰に身を避けることができれば、最高の技法を身につけていると言えるのである。

† 私が、聖なる者?
   宣教師に導かれ信仰生活が始まった。私が信仰をどの様に感じ取っていたかと言えば罪との決別であり、潔い生活をする事であった。19歳からの私に課せられた信仰の質でもあった。「聖なる」事に対する「汚れ・罪」は実際的な生活の中で具体的であり内面的な戦いで、まさに私自身が「戦場」であった。神の恵みがなければ自滅すると感した。クリスチャンが私以外に見当たらない四面楚歌(シメンソカ)の環境でもあった。必死に信仰を保ち続け、努力を惜しまないでいた。しかし、自分では気がつかないで、自分を追い込んでいたと思う。必死に求めている。しかし、信じる如くになっていない自分に失望した。遂に、その時がきた「私は信仰を守り続け、主に従う能力が無い」事に愕然としたのである。入信5年目くらいの時だった。主イエスの前に打ち砕かれて告白した「もう私は駄目です」と。しかし驚くべき事に、主イエスは、それを待ち構えていたように圧倒的な恵みで覆われた。聖なる者でもない私に、神の愛が押し寄せる波のように注ぎ込ん来たのである。主なる神のなさる事(技法)で信仰の歓喜を与えられたのである。
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「人生の技法」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/9/30 1:00
† 神の中に生きて行く。
   これはそれほど難しいことではないと思う。「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」使徒17・28)世界の中に生きる、現代の中に生きるとか、理想の中に生きる、とかがあるように同じ感覚である。ただ視点の置き所がそれぞれ違い、その最も大きくて安定しているのが「神の中に」生きて活動し存在することだと思う。人はスポーツに生きるのも良い、仕事に生きるのも良い、研究に生きるのも良い、どんな生き方も良い。その条件は神の中に生きる事によって、神の栄光となるからだ。人生が無駄骨に終わることがなくなる。このような認識が人生の技法となる。若いときも年を経るときにも、その存在は神の中に生きており、全ての事が益となる。なぜならば「神の中に生きる」以外に無いからだ。誰にでも離別や苦しみ、悲しみが伴うが、全ては神の中に行われている事によって、限りない慰めと希望を与えられる。この神の中に生きる技法は平安を生みだす。

† 愛の偉大さを知ること。
   前回にも触れたが神の愛を体験する事ほど大きな技法はない。「愛は死よりも、死の恐怖よりも強い」イワン・ツルゲーネフ)これを名言と捉えるだけでは傍観者に過ぎない。愛は、神から生まれたものであり、イエス・キリストは神の愛の極みとして現れ愛を実行された。しかしながら私達人間は、自分の善性や自己愛を自認して、神の愛を体験するよりは理論化しているのではないかと思う。理論は道筋を説きわかりやすいが、愛を味わうという事からはほど遠い。多くの罪を赦される人は、神を多くを愛する人である。ルカ7・47)これは神の愛に愛されて生まれる。生まれつきの愛ではない。聖書は「・・・・私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」ロマ5・5)と神の愛を注いでおられる。私達はそれを実感するまで、体験するまで求め続ける事である。この御言葉をも理論化してわかったように振る舞ってはいけないのである。なぜならば神の愛は具体的な私達の最強の技法だからだ。
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「人生の技法」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/9/23 1:00
† 私の本当の自立。
  社会人として一人前である。それが私達大人の自負ではないだろうか? それが世の中に生きるための重要な建前である。当然であるという憲法の保証もある。それだから私は自立した人間として振る舞えるのだ。しかし、本当の自立とは何か?を問われる。神を知らない人と知った人では違ってくる。神の戒め(律法)を受け入れて生きるなら、たちまち自らの罪深さや不誠実があらわになる。重荷にあえぎ、自分の良さよりも多くの欠点と愚かさが見えてくる。このように自立していない本当の自分が存在しているのである。どうして、こんな自分を愛せるのだろうか? 白(シラ)を切って傲慢に生きるしかないのか?この人間の難問に答える技法が「神の愛」である。神が言われる「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43・4)と、キリストの十字架の贖いで無条件に「彼ら(私達を)私(神)の喜びとし」エレミヤ32・41)て下さった。私には自立する術がないのに、神の愛の中に完全に私を自立させた。まさに最大の「人生の技法」なのである。

† 別れ出て行くこと。
  別かれる事にも色々ある。小学5年生の時、最も仲良しのM君が県外の遠くに引っ越した。列車が消えゆくまで涙を流して別れを惜しんだ。こういった別かれ、出て行くことはごく普通に起こる。もう一つの特長は意識的な分離である。神に選びだされると、おのずと知らされる。世の中では当たり前の遊びや楽しみが、主イエスを信じて生きる身には罪であり汚れであり悪となる。と言う事だ。罪を罪とも思わない人との付き合いを遠ざけること。金銭や物質に対する考え方に大きな距たりが生まれること。主なる神に什一を捧げる信仰が金銭感覚の第一になる事。愛する事においても神を愛する事が優先される生き方と、世的な快楽や喜びとの違いなどだ。19歳でクリスチャンになって、家族との問題は、私が世捨て人のように見られ、薄情だと見られた事だ。誰でも神がおられ聖書は真実であり、キリストは唯一の救い主だと受け入れる人なら勇敢に分離し、出て行くことは難しくない。分離し出て行くことで、主なる神の真実と祝福が豊かに伴っているからだ。家族はあなたの信仰の生活を見て安心し、尊敬するようになるのである。
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「人生の技法」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/9/16 1:00
† 生きる技法。
  「技法」とは、技能をある目的を達成するために最適化された手順で活用すること。これこそが私達の信仰の内容ではないかと思う。まず技能が無くては技法には繋がらない事になる。福音は主イエスがもたらしたものであり、神の主体的な働き(技能)なのである。これが聖書の大前提であり、このような神の技法は、主イエスのもたらした福音(最適化された手段)を通して私達を悪と罪の世界から救い出し、新しく生かして下さる事になった。誰でも主イエスに救われた者は、主イエスを救い主(メシヤ)と告白する。人生というテーマを掲げる以上、絶対にナザレ人イエスの福音を抜きにして考える事も、語る事もしてはならないのである。未信者で無神論者であっても「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」伝道3・11)ので、人間はこの世界に人間以上の厳かな存在に引きよせられるのである。しかし神の技法(イエスの福音)を無視する生き方は「愚か者」詩14・1)に墮するので注意。

† 目的にむかって。
「働く」とは「私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました」 2テサ3・10)働くことは食べる(生きる)ことと結ばれている。クリスチャンは神の栄光のために存在する目的で生きている。聖書は怠惰(働きたくない)を強く戒め、新しくなった人が勤勉で誠実である事を勧めた。働くということには目的を伴っている、生きる(衣食住)を成り立たせる。では目的とは、それだけのためなのか?そうではない、それだけを目的にして働くことは滅びる者と同じである。私達の働くこと自体が神の栄光のためであり、神を讃える礼拝が伴っているのである。自らの技能を最善を尽くして活用する時、神を具体的に讃えているのである。それが勤勉ということである。その働きは居食住のみのためではない、神の恵みに委ね感謝している自らの人生を、身近な人々に証詞して行くこと、隣人に仕えて行く事が、あなたの優れた神からの「技法」である。
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