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牧師の想い - 「人生の技法」(6)

「人生の技法」(6)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/10/21 1:00
† 人の褌(ふんどし)で相撲を取る。
  いかにも痛快なのが「自分の」ではなく「人の」ふんどしなのである。相撲でいう「三ゆいの回し」である。今盛んにになった将棋だが、桂馬が同時に二つを取りゆく手が盤上で丁の字形になることから、ふんどしとも言う。さて、主イエスを信じて神の中に生かされることが、とても痛快なのである。世の中では持っている者と持たない者、苦労の無い者と苦労している者、強い者と弱い者がそれぞれ存在する。あたかも目に見える様に実感するのではないか?しかし、キリストにあるならば、私達はたとえどのようであろうとも不幸にならず不満に生きる事が無いのだ。それは主なる神が力強く戦って下さるので、向かう敵無しの横綱のふんどしの中にいるようなものなのだ。私達への尊い契約が私達の保証である。また、主の十字架の御業は私達を神の財産の相続人として輝かせる。私達は朽ちない偉大な財産を受け継いでいる。私達は小さな者だが、最も偉大な神の人と同じように愛されているのである。これが本当なので、このような喜び方(相撲)が出来る。私の力(ふんどし)によるのではない。主イエスの愛の帯(゠ふんどし)コロサイ3・14)の力なのである。

† 血に逃れる。
  言うまでもなく主イエスの血潮のことである。神の技法の中心は「血」をさしおいて語る事は出来ないであろう。主イエスの血潮は人類が存続する限り、父なる神は一人一人に振り掛ける事を願っておられる。何十億という現在の人間がそれぞれ主イエスの血潮を注がれて潔められ、罪の縄目から解放されるためである。十字架に力があるのではなく、主イエスの血潮に力があるのである。罪自覚し、その滅びから救われたいと願うならば「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい」マタイ3・3)そうすれば主イエスの血潮が罪を潔め刑罰から救い出して下るのである。結局、私達人間は死んでゆくものであり、神の公正な裁きの座に出て裁きを受けなければならない。漠然とした信仰生活もあるだろうし、奉仕に明け暮れた信仰生活を送る人もいるだろう。とどのつまり(いきつくところ)キリストの血潮の中を生きたかが問われるのだ。人間の功績など、キリストの血潮と比ぶる事などあり得ない。だとすれば残された人生をキリストの血潮の中に浸して、神の御心に服して生きるのが、最も賢い人とされるのではないだろうか?
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