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牧師の想い

牧師の想い - 「人生の技法」(4)

「人生の技法」(4)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/10/7 1:00
† 身を避けて生きる。
   何事にも守られて生きる秘訣は何か? 聖書は「神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます」詩編36・7)と言っている。「御翼」とは、具体的な守りの覆いである。主イエスが語られた「わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」ルカ13・34)主なる神が「めんどりのように私達をかばわれる」のである。私達に対する主イエスの嘆きは「御翼の陰」に身を避ける事をしないで、自分を健康なクリスチャンだと思い込んでいることだ。人間であるということを世の中の尺度(基準)で計れば、何かに身を避けるべき落ち度など無いと思い込む。しかし、とんでもないことである。あの偉大なダビデが、なぜに神の御翼の陰に身を避けるのか?それは絶大な神の恵みを震えおののくほどに知っていたからだ。神の恵みがわからないなら、神の偉大さもわからない。神の偉大な御翼の陰に身を避けることができれば、最高の技法を身につけていると言えるのである。

† 私が、聖なる者?
   宣教師に導かれ信仰生活が始まった。私が信仰をどの様に感じ取っていたかと言えば罪との決別であり、潔い生活をする事であった。19歳からの私に課せられた信仰の質でもあった。「聖なる」事に対する「汚れ・罪」は実際的な生活の中で具体的であり内面的な戦いで、まさに私自身が「戦場」であった。神の恵みがなければ自滅すると感した。クリスチャンが私以外に見当たらない四面楚歌(シメンソカ)の環境でもあった。必死に信仰を保ち続け、努力を惜しまないでいた。しかし、自分では気がつかないで、自分を追い込んでいたと思う。必死に求めている。しかし、信じる如くになっていない自分に失望した。遂に、その時がきた「私は信仰を守り続け、主に従う能力が無い」事に愕然としたのである。入信5年目くらいの時だった。主イエスの前に打ち砕かれて告白した「もう私は駄目です」と。しかし驚くべき事に、主イエスは、それを待ち構えていたように圧倒的な恵みで覆われた。聖なる者でもない私に、神の愛が押し寄せる波のように注ぎ込ん来たのである。主なる神のなさる事(技法)で信仰の歓喜を与えられたのである。
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