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牧師の想い - 「神の国を生きる」(7)

「神の国を生きる」(7)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/7/22 1:00
† 神の助けが起こる。
  神の国を生きる私達のために、主イエスはなんと言われたか「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」ヨハネ16・33)私達が「世にあっては」と言う意味は、単に生きていくこと以上の、神の福音(神の国)を生きる上で、ということである。第一に、神の平安は神の国を生きるために選ばれた私達に注がれる。第二は、信仰を勇敢に生きる私達に、キリストが世に勝たれた恵みと聖霊の力(勝利)を私達に伴なわせ患難に立ち向かわせる。いま患難にある兄姉は、神の祝福から見放されているのではない。より強く主イエスがご自身に引きよせておられるのである。福音の霊的思考で、人間的思考を克服し、勇気を出して交わりをすれば、神の助けは真実に起こる。

† 重心のある所。
  重心とは,私達が生きる上での重心である。主イエスは次のように言われた「あなたがたの宝のある所には、心もあるからである」ルカ12・34)私達は宝とするものに心を置く生き物で、そこに「重心」が置かれている。人間の頭(理性)は非常に都合よくできているので、論理的で説明的である。例えば「神の国とその義」が信仰生活の第一です。そして、それがクリスチャンの重心です。と回答できる。しかし理解と実際は異なるのである。人間は信仰(聖霊の励まし)がないと霊的に理解した事を生活上に移すことは難しい。頭脳明晰な公務員が不正に手を染めてしまうように、曖昧に生きてしまうのである。宝(私達クリスチャンの特権)が、いかに理解されていても、心が伴わない場合は、重心とはならず、人生の重力とはならないわけである。心が世の中の快楽に在っては、頭でわかっている神の国に心あらずとなり、神の国を生きる事は難しくなる。今、一番に成されるべきは、礼拝において、真面目に神の言葉に応答して行く事である。
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