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牧師の想い - 「一貫性の喜び」(7)

「一貫性の喜び」(7)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/4/15 1:00
 † 曖昧な私とつき合う。
   私とは曖昧で一貫性に欠ける人間である。しかしながら、これは全ての人に共通する事かも知れない。曖昧な私なので、心して一貫性を求めるのが実情である。内村鑑三はキリスト者として、戦争に傾く厳しい社会情勢の中、信仰の一貫性を持ち続けた世界に誇れる人物である。激しい迫害の中でも彼の信仰の精神は生き続けた。私にはそれほどの力はないが、彼を思うと勇気を与えられる。曖昧とは、あるべき轍(テツ)「先人のつけた道」を歩まないことであり、、自分の弱さに迷い、混乱した行為をすることである。「君子危うきに近寄らず」はキリスト者にとって重要な事である。誘惑は、自分を曖昧にしてしまうからだ。一貫性を保ち続けるには、このような曖昧さを纏う私と、しっかりつき合って行くこと。行くべき真理の車輪のわだちが見えているのに、そこを歩まず外れ出てしまうからだ。曖昧な私に厳しくつき合って行かないと、右に左に揺さぶられ振幅が大きくなり、一貫性とは何か自分でわからなくなるからである。曖昧な私を見据える事が、一貫性をもたらすことになる。

 † 今までとこれから。
   今までを生きてきたことは、素晴らしい事である。一人一人には独自の歩みがある。ずいぶん遠回りを強いられた道のりであったかもしれない。ある人は苦労もなく直線的な歩みをしたかもしれない。聖書には、さまざまな人物の生き様が書かれている。世界の富を惜しみなく手に入れたソロモン大王もいれば、金持ちの軒下で食べ残しを待つ、全身おできのラザロもいる。そういった人々の結末を聖書は克明にしている。それは私達が自分の今までを不遇に結びつけるのではなく、感謝に結びつけ、生を与えた神を誉め称えるためである。私は2才にして太平洋戦争に巻き込まれ、激変する環境の中で押し流された。もがき続けたお陰で「真理による自由」ヨハネ8・32)に、たどりついた。苦労をする事、不遇を耐えることがなかったら、このような出合いはなかったのでは、と思う。私の場合、主イエス・キリストに勝るものは他に無い、という世界になった。「あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います」詩63・7)キリストに出会って、58年に及ぶ今まで、主なる神は真実に支えられた。残された日々は短いかもしれないが、偉大な真理の自由のために、一貫して全力を尽くしたい。
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