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牧師の想い - 「成長する人の痛み」(7)

「成長する人の痛み」(7)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/11/19 1:00
 † 自分の痛みから学ぶ。
   私の人生は与えられた痛みから学んだことが多い。また受けるべきものを受けないことによっても学ぶべき事が多くあった。痛みという概念はマイナーに分類されやすいが決してそうではない。痛みには悲しみが伴うがとても重要である。本来人間は楽しみや喜びの中で重要な真理を学ぶ事が少ないようである。「知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く」伝7・4)「人が、若い時に、くびきを負うのは良い」哀3・27)若い時(思春期・青年期)に辛い修行をさせられる事や、自分の思い通りではない世界にあって進んで生きる事でもある。キリストにあって経験する深い痛みや悲しみ、理不尽に耐えて神を愛せるならば、根のある人となり思想の深い豊かな人となる。主イエスの憐れみと慈しみが反映される人ともなる。人の痛みや悲しみを人ごととは思わない人となり、とりなしの祈りをする人となる。私の歩みの中で誇れるものはないが、主なる神に愛される者として、懲らしめの中を通らされ、痛みや悲しみを味わったことが、後に100倍の「実を結ぶ種」になったことは事実である。

 †  神の栄光に帰すること。
   これは決して痛みではないが、この世に自分をあらしめたいと思う時には痛みになる。私達はこの世に生きているので、人々の評価の中にもある。聖書は私達の人生の健全さを教えている。「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」マタ6・3)人間のなしえる最高の善を右手で行った、しかし、左手には知らせない。言葉を代えて言うならば「施し」という最高の善は、神の栄光のためであって、自分自身の栄誉のためではない。自己満足や世の中(人々)の評価から遠ざかる事を求めている。企業や大きな機構は大々的に寄付金や援助額を公表する。これは世の中に立って利益を得ているために貢献度を明確にする義務でもある。しかし、クリスチャンは一人一人が神に生かされているので、自分の内に起こる人々の評価を得ようとする功名心や欲求に、戸を閉じるのだ。聖書は言う「自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです」マタ6・2)しかし、私達は天の報いが伴う神の栄光のために注意深く「左の手」に知らせることはしない。
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