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牧師の想い

牧師の想い - 「成長する人の痛み」(5)

「成長する人の痛み」(5)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/11/5 1:00
 † 挫折のまことの意味。
   宣伝販売員(デパートなどで実演販売する人)の実力に驚いた。商品はフライパンや包丁など、商品は限りないが一日に10万円を売り上げるという。人にもよるが、年収一千万円以上の人もいるという。そういった人を育て束ねる会社があるのだが、その社長の言った言葉に驚いた。販売人を募集するのだが「挫折」を味わった人を求めるという。なぜならばと言う理由は言われなかったが、皆様にはその理由がわかるだろうか? 聖書には深い挫折を味わった者を、主なる神はご自分のしもべとされている。新訳聖書では筆頭に使徒ペテロをあげることができる。次に、使徒パウロだ。旧約聖書ではモーセも挫折の淵に落ちた人である。ヤコブにしてもそうである。その子ヨセフはエジプトでパロに次ぐ大臣になったが、兄弟に奴隷に売られる挫折の中を長く生きての結果である。挫折という痛みを真摯に受け止められた人は幸いである。なぜならば神の思いのままなる手の中で自暴自棄にならなかった事で、主なる神の御業にふさわしい者と認められるからである。誠実に生きて不遇や挫折を味わうなら「わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた」詩40・1)と、なる様に心掛けることである。

 †  痛まない薬。
   肉体的な激しい痛みを緩和するのにモルヒネ(ケシを原料とする、アヘンから抽出される強力な鎮痛剤)を用いる。重篤な痛みのある方々に、痛みのない日常を過ごすことができるようにする。私達は健常者を任じて生きていると思うが、クリスチャンとしては痛むべき所で痛みを感じないような者に変質しているのではないかと思う。自己催眠ではなく自己麻酔をかけて「心の痛み」を感じないようにできるのである。主イエスだったら立ち止まるところで、私達は素通りする。主イエスだったら手を差し延べ助けられるところを、私達は何もしない。私達は人に教えることが得意だが、教えられる事を求めない。自分にして欲しいことは祈れるが、主イエスのして欲しいことについては祈らない。非常に都合の良い麻酔が私にかかっているので、これらの事についてトント痛みを感じないのだ。こういう私達のミニストリーとか奉仕とかが、どれ程のものなのか考えものである。私の座右の聖句に「彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである」ヨハネ12・43)がある。要するに人の栄誉を愛する人には、聖い痛みを感じる感性も霊性も失われてしまうのである。
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