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牧師の想い

牧師の想い - 「生命の流れる道」(6)

「生命の流れる道」(6)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/9/24 1:00
 † 感覚的人生とは。
   私達は誰でも感覚的な出発をする。赤子はなんでも口に入れようとするが、本能と言うよりは、生理学的な感覚的満足のためだという事を聞いた。世界というものを幼いときから五感を通して認識して行く事は誰も否定しないと思う。大人になっても知性の増大に伴って認識した事を感覚的に受け入れ行く。これがこの世に生きると言う事である。世界情勢一つをとっても、刻々の変化を感覚的に受け止めていると思う。これは人間が地上で100年生きるためには必要である。しかし、本来の生命は別の歴史である聖書の出来事の中にあるわけで、地上的に培った感覚でスッキリ理解できるものではない。その意味でキリストを信じられている私達は、全て主なる神の恵みによって、神の永遠の生命の中に入れられているのである。肉的な感覚は快楽と、その欲情を伴ないあらゆる欲望に繋がる。感覚的な生き方は地上の事柄に終始する生き方である。しかし、主なる神を信じられた私達は霊的な感覚を研ぎ澄まして生きる者である。主なる神に触れ、主を見て、御言葉を聞き、聖霊の香を嗅ぎ、全ての善きものを味わう。地上でも神の生命の中を生きて行くのである。

 †  主イエスによってのみ。
   賛美歌267「神はわがやぐら」の原詩はマルチン・ルターである。日本語訳詞にはルターの原詩とは異なる訳がされている。聖歌233番「み神は城なり」中田羽後氏編集には、ルターの意図した詩「・・キリストイエス勝ちを得たもう唯一の神なり」が反映されている。ルターは宗教改革ののろしを挙げたが、教皇派の勢力の大きさ、迫り来るイスラムの軍勢、何よりもルター陣内の分裂という四面楚歌の中で、この詩が生まれた。ルターは徹頭徹尾、救いはキリストのみとし自らに何ら頼るものなしとした。このような理解は使徒パウロも同じで、十字架と復活の主イエス以外に頼れる根拠はないとする。福音宣教は「・・・・私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした」1コリント2・4)と語る。賛美歌267の2番「・・・・われと共に戦いたもうイエス君こそ・・・・」と訳されている。ルターの信仰が全く異質のものに変えられている。今や人間が神の御業にしゃしゃり出て神の生命の流れを妨げているのではないか?という高邁(コウマイ)さがある。聖霊を信じるのは良い。伴われる聖霊を力とするのは良い。しかし、道具のように見なしたら終わりだ。生命は聖霊なる神に仕える所にあるからだ。
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