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牧師の想い

牧師の想い - 「生命の流れる道」(3)

「生命の流れる道」(3)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/9/3 1:00
 † 生命は道を作る。
   水を流すと自然に流れやすい低い所を水は流れる。水が道を作ると言う訳だ。これは世界的な規模においても見られることである。アフリカに福音宣教がもたらされた当時、西欧の宣教師達は、言葉中心の説教に重きを置く知的なキリスト教であり、教会の成長を期待しない静的な自己の教派観念に捕らわれていた。しかし、アフリカの人達の生活には聖書は現実そのもので、キリストの悪霊追放や病の癒やしは、そのまま受け入れられるものであった。しかし、教会では悪霊については語られず、癒やしは薬を飲み病院に行く事であった。キリスト教は西欧から入ってきて、キリスト教文化も西欧的と思われていたが、そうではなかった。やがて植民地化が終わり、宣教師達が引き上げると、全く新しいアフリカの文化に馴染んだ、キリスト教がその国に土着したのであった。聖霊の力強い働きと現実的でわかりやすい、親しみやすい話し言葉を通しての霊的な活動によって、アフリカ各地に広がり続けたのである。生命とは神ご自身であるし、それは聖霊の今日的現れである。その生命は低い場所を求めて流れようとする。高度な学問や知的なことばの説教で足れりとするならば、もしかすると生命の流れを邪魔する高嶺かも知れない。

 †  神に追いやる道。
   私達の幸せは多くの友に囲まれ、何不自由のない暮らしがあるからである。しかし、突然大嵐が私の人生に襲いかかり沈没寸前の傾いた船のようになると、たちまち人の助けがおよばない切迫した困難に追いやられる。こうなって私達人間は初めて、神に追いやられるのである。神に行く道しかないからである。苦難が私達の不幸ではないと聖書は言う。とてつもない試練が最悪だと聖書は言わない。神に依り頼む幸いな道があなたに作られるからである。教会の認める、主なる神の幸いは目で見える地上的な平安や豊かさではない。まことに自分の貧しさを知る事は幸いである。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」マタイ5・3) 恐らく地上で満ち足りている人では、貧しい心を理解できず、天の御国を生きる事が出来ないかもしれないのだ。天に心が開かれた人の特長に、様々な出来事、不条理な世界に置かれ、遂に神のもとに追いやられて目から鱗が落とされ、主なる神の創造世界を見、主イエスの偉大な御業に引き入れられ、神の安息に入り、まことの憩いを体験する。霊の目が開かれれば、心は天に開かれる。今のままでも低くなり謙れば主イエスは目の鱗を取り除いて下さる。  
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