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牧師の想い

牧師の想い - 「生命の流れる道」(2)

「生命の流れる道」(2)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/8/27 1:00
 † 流れは上から下に。
  「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである」詩133・1-3) 主なる神の祝福は大祭司の聖別の時に注がれる油のように、胸につけられた12部族を聖別した。今日的に言うならば、一致した信仰のクリスチャンの交わりに、主なる神は恒久的な祝福を天から惜しみなく流される。と言うことだろう。私達は何かと個人的な祝福を求めている。競争社会では個人主義が生まれる。しかし、教会はキリストを頭としているので、クリスチャンは礼拝を中心に「和合して」(一つになって)共に住む事が神の祝福を引きよせるのである。一人でもアウトサイダーのような態度が交わりに見られれば、祝福の流れは屈折し留められてしまう。一つになる交わりとは、一人一人が認め合い、受け入れ合う事である。このような条件を満たしている教会には「シオンの山々におりるヘルモンの露」のように、とこしえの生命の祝福が流れ下ってくる事を心に留めて信仰生活を励もう。

 † 主イエスと仲良しになる。   
  仲良しの最たるものは、恋人同士ではあるまいか? 生涯を伝道者として死の一ヶ月前まで福音をべ伝えていた滝元明先生は,主イエスは私の恋人と呼んでおられた。恋人の崇高さに恥じることのないように生きる事が、どんなに潔い生き方であるかは知る人ぞ知るである。そんな生き方をした事の無い人は気の毒としか言い様がない。なぜならば信仰とは主イエスとの親密な交わりであり、恋愛関係と言って良い。眉をしかめる人には「雅歌」の神聖な解釈による読み方をお勧めしたい。仲良しというのは、どこにも見られる一般的な関係だが、せめて主イエス様とは「仲良しです」と言える程度の交わりの関係を求めたいからだ。その重要性は、主イエスにふさわしい私であるならば、そこには生命の繋がりがある。主イエスを親しむ仲には強い結びつきもある。要するに仲良しにも、大きな幅がある。主イエスと切り離されたら死を意味する仲(恋人)ならば、完全に主イエスが私の生命なのである。信仰の実感は「神の言葉を信じる」という事と、親密な交わりによる生き生きとした感覚的な愛である。魂の純化によって主イエスを恋人と呼べる境地に至ろう。
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