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牧師の想い - 原点から勝利へ(1)

原点から勝利へ(1)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/5/27 10:20
†  原則を識る。
 多くのクリスチャンは信仰があれば,良いというように考える。それだけの信仰生活,教会生活を念頭に置いてしまう。その根底には自分の幸せや人生という考えがあることがわかる。確かに人間の生活はその範疇を超えてある訳ではない。しかし,同じ人生でも見つめる世界,持っている目標によってガラリと変わってくる。もし,自分の可能性を知らないならば,これは「負の原点」である。負となったているセルフイメージ(自己像)は,神の産物ではない。これこそは人間の敵であるサタンの仕組みによって造られたものである。生まれる以前から私を知り創造された神(エソ1・4)が,求め,期待しておられる状態ではない。奇しくも主はそんな私達を選ばれ回復されたが,依然として後遺症の低い自己像が支配している。これは決して本来のクリスチャンではない。回復を必要とされているのである。ここに大切な原則の必要を知るのである。「神にあって私は真実の私になる」すなわち負の生活から勝利者の生涯になるのである。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」2コリ3・18

[/b]†  自分の外にある。[b]
 経験の動物としての人間はそれなりの知恵を持つのである。日本人は日本の文化と習俗の中で生きて行くための知恵を培ってきた。しかし人間の生み出したものは所詮人間のためである。クリスチャンになってわかった事は,私達は「地上に国籍はない」ピリ3・10)地上に終始している知恵では,私達の原則とはならない。天に通じるものとしての聖書の真理を知恵とし「原則とする」絶対の必要があるのである。要するに元来人間の中には原則はなかったのである。造られたものとして「アダムとエバ」は生きる原則を神から与えられた。その原則を生きなければ死ぬ,と言われた。けっして手を出してはならない非原則があったのである。私達は戒めとか,律法という霊的な狭義として理解しているが,聖書(神の御言葉)は人生全般を支配する原則の「原点」なのである。教会に来て,何を知り何を学ぶのであるか?この事についてはすべての必要のためということができるだろう。しかし,初代の教会の観点から見るならば,聖書の解き明かしは真理を原則として生きる者への揺るぎない生きた確証と励ましであった。私達の教会も添のようになりたいものである。
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