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牧師の想い

牧師の想い - 信頼し信じる(1)

信頼し信じる(1)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/4/8 18:10
† 信じて死す事。
キリスト信仰は,信仰の宗教とも言われる。信じるということが「初めであり終わりである」からだ。なぜそうなのか,それを決定づけているのが,主イエスの信仰である。だから主イエスは信仰の創始者(ヘブル12・2)と言われている。主イエスは最愛の弟子達からも見放され一人十字架に引き渡された。それは主イエスにとって予期されていた事であった。弟子達は「私達も主と共に死のう」とまで言う元気があったのだが,現実になるとあまりの恐怖に逃げ出してしまったのであった。ここに主イエスの信仰があったのである。主イエスはこのような弟子を信頼しておられたと言う事である。ペテロは何とか裁きの中庭までついてきたが,主の言われたとおり,鶏が鳴く前に3度もイエスを否定してしまった。こういう弟子は信頼されるに値しないはずである。それでも主イエスは信頼されたのである。人の失敗に対して信頼する事は「信じる」と言う事である。多くの場合,出来たから信じるに値する者とする。しかし主は完全に失敗した弟子達を信頼して,十字架の死を遂げられた。このような信頼する信仰が後にすべての弟子達を引き出し,世界を作り変える真の弟子に成長させたのである。

† 復活の及ぼすもの。
キリストが「死人の中から復活された」事は,完全な希望を意味している。失格した弟子達は,その頼りなさ,罪深い弱さの自覚と認識の中で,どん底に置かれていた。しかし,死人から甦られたキリストとの出会いによって,すべて払拭されてしまったのである。福音というものは人間の本質を知らされた者に届くものである。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」ルカ5・31)要するに人間に完全はないはずである,まして死人からの復活をされた主イエスを前にして,誰が健康な人間であろう。・・・・・それでも人間は「自分は健康だと」自認して生きてしまうのである。せいぜい身体上の医者には行くが,永遠の魂のためにまことの医者を求める事はない。ここではっきりわかる事は,永遠の命を得る事も,失う事も,その人の「自己責任」だと言う事である。聖書を信頼し信じる事も,福音を聞いても信じないようにする事も,その人の責任である。しかし,その背後で闇の力が働いている事を思えば,福音を拒む人々のために祝福を祈らなければならない。それが福音に生きる者達の責務である。
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