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牧師の想い

牧師の想い - 繋がる真実(6)

繋がる真実(6)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/3/25 10:10
† 主と実質になる。
  主と本当の(実質の)繋がりを持つ事とはどういう事だろうか?と改めて考える。私が「愛する」ということの中身を考えると幾らか見えてくる。第一に,言葉だけのものではならない,と言う事がわかる。心で熱く思いめぐらしている考えの愛ではならない。もちろん片思いという愛もあるが,聖書で言う愛「アガペー」の領域外のことの恋愛に関する事であるから取り上げるまでもない。第三は,愛を理解した,という知識で終わってはならない。と言う事がわかる。すなわち愛は「行い」を伴わないならば空しいと言う事だ。 ガラ5:6「・・・・・愛によって働く信仰だけが大事なのです。」あるいは1ヨハネ3:18「・・・・・私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」また「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」マタ15:8 と言われているように,愛するならば疑わず信じ,その言葉に従う(行う)事が愛の証明である。その愛の行いの中で一番大切な事は「赦す」という行いである。マタイ6:14,15「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」とあるからである。

† 一人になる祈り。
 多くの友との祈りはすばらしいものである。心あわせられた祈りは,天の恵みの雨と聖霊の火を呼び下す力がある。しかし,主と真実に繋がり交わるためには,一人になって主に向かわなければならない。主イエスは最も親しい三人の弟子を伴ってゲッセマネの園に赴かれた。しかし,なお三人の弟子とは石を投げて届くほど離れた所で一人になられたのであった。孤独になられたと言う事でもあるが,友を離れたところに全き父なる神との交わりがあるという事である。そこでこそ主イエスは「人の知識と同情の達し得ない聖域」で,最も深い慈しみを流し出す「霊的な酒ふねを踏まれた」のである。祈りは主に倣うものには苦悩であり,服従であるが,そのことを通してでなければ命を溢れさせる事は出来ないのである。私達は次の主の勧めを忘れないようにしょう。「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」マタイ6:6 これこそが主と繋がって信仰が生きている,しるしである。
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