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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「教会イノベーション」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/2/18 1:00
 † 育つ人を求め続ける。
   育つ人とは誰か?するとすぐに思い浮かぶのは「若い人」となるが、実はそうではない。育つ人とは「求めている人」求道者である。若くして学歴があり、好ましい人であっても、聖書で言う「飢え渇きのない」人は育ちようが無いのである。その一方で高齢者と見られながら、真理に渇き、神の御顔を仰ぎ求めている人がいる。まさに卯建(ウダツ)の上がらぬ若者に勝る育つ人、成長を続け輝きを増す人である。このように自発的に求道し育つ人が霊的な若者なのである。それだから「わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」1サムエル16・7)と言われる。高齢化する教会であっても、飢え渇きのある方々が集われるならば、霊的に若く、燃えている教会であるのだ。年齢的な若さに甘んじているだけで、渇きもなく自発的な探究心もない教会は老人化しているのである。もう一つは魂がこの世に汚染されていない、キッズや中高生を育つ人と見るべきである。今日迄もそうであった様に、これからも続けて彼らに愛情を注ぎ「育つ人」にして行こう。

 † 問題と困難を通して学ぶべき
   苦しみとや困難を求める人はいない。しかし、それは求め得ずしてやってくるものである。それは主なる神も赦されている「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」ヘブル12・6)そして、それは訓練である事。神の子として扱っておられる証拠である。と、言われている。教会における難しい問題も大切な課題となり、イノベーションの契機とされるのである。昨今の日本の企業における不祥事は、隠されていた大問題であった。問題解決の苦しみと「うめき」が新生する力を生みだすのである。教会も同じで、ひどい試練を乗り切った教会は、さらなる神の恵みの中に引き入れられ、痛みを神の栄光に変えて進んでいる。神の懲らしめの帰結は何かと言えば、揺るぎない神の真理(御言葉)に立ち帰る事であり、また「混乱の神ではなく平和(秩序)の神だからです」1コリ14・33)とある如く、平和とは主なる神から下って流れる秩序である。爽やかな風通しの良い教会へと変えられる事になる。
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「教会イノベーション」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/2/11 1:00
 † 再び燃えたたせること。
   「私の按手を持って、あなたのうちに与えられた、神の賜物を再び燃え立たせてください」2テモテ1・6)あなたのうちに、既に与えられている賜物、これこそが教会にとって、教会の働きにとって重要な事なのだ。イノベーションとは、新しいことの創造であるが、聖書の原理的な主張の一つは「既に与えられている」と言う事である。何かを作り出す前に、既にあるものを新しくせよ。と言うわけである。テモテは使徒パウロから按手を受けた時に、力強い油注ぎを受けた。この歴史的出来事は一回的であったかも知れないが、与えられた賜物はいつ迄も続いて「あるもの」としてパウロはテモテに促している。だから「再び燃え立たせ」よ、と命じている。私達クリスチャンの問題は、私達が人間であるということである。かつては、聖霊に導かれ、御言葉の指導の下に信仰の喜びと力で戦い続け、歩み続けていた。だが霊的な戦いは一面的なものではなく、あらゆる事柄の攻撃にさらされ疲れ果てる。いつしか臆病となり、霊的、信仰的な慎みを欠く程に弱まるのである。聖霊の油注ぎと共にあった賜物が、情熱を失い、その炎は輝きを失うまでに弱まる。残るは唯一、与えられている聖霊の恵み(賜物)を燃え立たせることである。祈りに立ち返り主に叫び求め、聖霊の恵みを燃え立たせることが出来るのだ。

 † 柔軟に変えられる。
   私達のビンヤード教会は、世界に「聖霊の第三の波」をもたらす重要な一翼を担った。その当時の問題が今日にも当てはまる。どう言うことかと言えば、多くの教会が聖霊の働き(ワーシップ・しるしと不思議の伝道)を教会に招きたいと、創設者のJ・ウインバー師に殺到したのである。招きに応じ、神の御栄えのためにアメリカのみならず世界の各地に赴いたのであった。ウインバー師が問題に感じられたこととは。それは、新しい聖霊のお働きに対して、非常な関心があるにも関わらず、教会のスタイル(賛美の在り方や礼拝形式)を変えようとしないと言うことだった。「聖霊のお働きに邪魔になるものは取り除く」それほどのフレキシブ(柔軟性)が主なる神(聖霊)に対して求められるのである。ところが人間は伝統(定型)が好きである。昔のままに安住し平安を覚えるものだ。教会も変わりようのないスタイルのまま、自ら変わることに億劫(オックウ)になる。しかし、古い形態や、人間が取り仕切ろうとする言葉やプログラムが聖霊様の働きを不自由にしてしまうことは現実の問題である。主なる神は変わらないが、私達は変わってゆかなければならないのである。
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「教会イノベーション」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/2/4 1:00
「教会イノベーション」(4)

 † 信仰を楽しむ。
   人生が楽しいこと、それが生きる醍醐味となる。もし、クリスチャンであることが楽しくないならば、一体何が生まれるのだろう?また、どんな新しいことが生まれるのだろう?キリスト信仰が、その人にとって楽しいならば、それこそが神の御心の成就である。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」ピリピ4・4)喜びと楽しみは一心同体と思える。しかしながら私達クリスチャンは、信仰は楽しいという表現を余りしない。むしろ失っているのではないか?そのためのイノベーションが必要だと思われる。かってインドに赴いてマザー・テレサを訪問した牧師の話を聞いた。テレサは貧しく路上で死に行く人々を神の子として引受け、あらん限りの愛を注ぎ、そのような多くの人々を看取ったのである。牧師が見て驚いたのは、テレサと多くのボランテアの働きの中に、笑いが絶えず、和やかな楽しさが覆っていた事であった。恐らく、このような働きが神からのものであるが故に、人間の悲愴感や強制力とは全く違う、神への奉仕の喜びが満ちていたのだと思う。私が思う事は、今、一人のキリスト者が信仰の喜びを現し、信仰を楽しんで教会に集ってくれるならば、その人が教会にイノベーションを興す人なのである。

 † なる様になる。
   ケ・セラ・セラ、なる様になる。と、ドリスディ・デイが歌い、一斉を風靡した事を思いだした。スペイン語「ケ・セラ・セラ」は、なるようになる。と言う意味。とかく私達は、良いことを予測しないで悪いことが起こることを思う。物事を悲観的に考え、失敗したらどうなるのか?と、常に暗い地下に繋がる下だり階段を見つめているのである。これこそが罪に汚染されている思いであり、感覚なのである。主イエスは「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」マタイ6・27)と言い「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」33)と約束された。主なる神に任せれば「ケ・セラ・セラ」なのである。なるようになるのである。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」 1ペテロ5/7)とある。私に起こるべきイノベーションは、自分の感覚的な恐れに縛られず、主なる神と約束に自らをゆだね「ケ・セラ・セラ」なる様になると、歌うが如く、主なる神の導きを期待しつつ、楽しみつつ生きることだと思う。
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「教会イノベーション」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/1/28 1:00
 † 歴史を顧みて生まれる。
   最近の教養的テレビ番組で人気なのは歴史に登場した人物と時代の検証ではないかと思っている。似たような番組が幾つかある事が、それを物語る。現代という視点から、何百年も前の人物が、取り上げた事柄、実行した事柄が、イノベーションとなり大きく歴史を動かした事が浮かび上がってくるのである。生きた教会を持続して行くにも同じ事が言える、プロテスタント500年の歴史を無駄にしてはならない訳だ。現代がものすごい勢いで様変わりしているように伝えられるとき、教会はあわてふためいて揺り動かされてはならない、まず第1に、聖書の揺るぎない真理を堅く握ることである。そのためには聖書学者によって日夜研究が進められ、教会に提供される成果を受け取り、福音の圧倒的真実を共有することだと思う。第2に、教会は昔(使徒時代)に帰ることである。企業ならば、創設者と創業時代の精神を偲ぶことだが、私達は、神の生命が溢れ満ちている使徒時代の信仰の、本質と内容を見るのである。第3に、教会のイノベーションとして、まず、失なわれている信仰の生命力を、歴史から取り戻すことである。ビンヤード教会はこの現代に「しるしと不思議の宣教」をもたらしたが、さらに、これから、使徒時代のように、しるしと不思議の伴う福音宣教を進めて行くべきだと思う。

 † 論理的知性的に考える。
   私達日本人を始めおよそ人間は、信仰を一種の情念(パトス)だと思い込んでいる。また、信仰は「心の問題」として片隅のものとされる。これは大きな間違いであり、キリスト信仰とは相入れないものである。これまでの私の若者伝道で結果があったのは、論理的で知的な説得力によるものであった。私に伴なったしるしや不思議によって、未信者が救われた例はほとんどない。しかし、神の経綸(ケイリン)について、 宇宙の主人(神)が管理人として、私達に関わって下さっている事。その内容である天地創造の神と人間について、主イエスの降臨と十字架についてを知的な物理学や科学に準じて論理的に聖書を説明する。そして私達の存在が罪の中にある事を理解させる。その罪の告白に導くと、多くの若者がキリストを信じた。霊的イノベーションは、聖書を語れる能力ではない。自分自身が論理的、理性的に信仰を受け入れ、そこに生きている事なのである。信仰が論理的・知性的な決断として自分の生活そのものである事が当然求められている。しかし、信仰を一種のパトス(情念)にしている限り、信仰と私の間には、埋まらない隙間があり続けるのである。
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「教会イノベーション」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/1/21 1:00
 † 人の持つ力を。
   昨年は「ビンヤード・ミッション・センター」建設であった。後半に入って宗教施設として認可を受けるための岐阜県との折衝に、大きな霊的な戦いを感じて祈らされた。古い概念が息づく宗教法人法の枠に合うようにするには、幾度となく大変な事があった。主なる神は、背後で奇跡的な準備をされ、人々に働きかけて下さり、認可される道を開かれた。昔、主なる神はペルシャの異邦人クロス王に神の霊を注ぎ、奮い立たせられたことが記されている。エルサレムに神殿を立てさせるためであった。Ⅱ歴代36・22、23)また、主イエスは「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です」マルコ9・40)とも言われている。ここでは洗礼を受けているか、いないかは問われていない。「私達に反対しない者」ならば、主イエスも共におられる「私達」の味方なのである。教会の周りには多くの味方がおられる。この方々は教会のために、福音のために大きな力を持っておられる。主なる神は、教会のために、そういった人々の力を用いられることがあるのだ。宣教は福音を持って世に討ち入ることである。市の中枢に、県の中枢にも福音が必要なのである。教会の味方である異邦人(未信者)が豊かな戦力として世の門を開いたり、神のみこころのために道を設ける務めも与えられているということだ。

 † 原始的戦略の力。
   私と妻は、新年礼拝を終えて、すぐペトナム旅行に赴いた。一番安く、日程が良い時と言うことだった。今、ベトナムではキリスト教が急伸していると添乗員が語っていた。なるほど田舎にも十字架が見えた。社会主義国家なのに人々のニーズが福音にあるのだろうし、宣教がされているということである。世界遺産を五つ巡る旅でもあったが、何よりも印象に残ったことは「クチの地下トンネル」だった。アメリカとの戦争にベトナム軍が勝利した実体がわかった。戦車も飛行機もないベトナム民兵がジャングルに地下道を距離にして250㎞を掘り、神出鬼没(シンシュッキボツ) さながらに米軍を攻撃したという。科学兵器で勝てるはずのアメリカは、泥沼にはまり甚大な人命の損失に道を塞がれたのである。ベトコン(ベトナム兵)は、十代の女性から老人まで、一致団結して支え合い、手作りの武器、落とし穴や罠で戦った。これは私達の宣教に通じるものがあると思わせられた。宣教は誠に原始的な方法である。第1、宣教の志を一つに団結する。第2、証詞と伝道(福音を伝える)第3、交わりに招待する。原始的戦略の力は「初めの愛」默2・4)に回帰することである。
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