トップ  > 牧師の想い > 最新エントリー

牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「人の立つ位置」(2)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/11/11 1:00
† 清さの道に立つ。
  清い心を持って立つとはどう言うことか? ある時まではとても清らかな心を持って過ごしていた。しかし、ある時からそうではなくなった。そういう経過を持っている人は少なくない。清い心で立ち続けると多くの悲しみを耐えなくてはならない。何故ならば、悪辣横柄な手段を用いる者達に先んじられ、馬鹿にされ、奪われたりするからである。その苦しみと、堪え難き悔しさは、純真である事を止める引き金にもなる。「まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた」詩73・13-14)3節には「これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである」とある。神を恐れて純粋であろうとする心は揺さぶられるのだ。損くじを引いている「愚か者」とさえ思われる。しかし、次のようになる。「わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる」詩73・17-18)神を恐れる清い心が勝利者の立位置なのである。

† 何をしても栄える人。
  そうなりたいならば、至極簡単である。二つのことを行えば良い。一つは「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」詩1・1)二つ目は「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」 詩1・2)である。重要な事は、これは掌(テノヒラ)の両面の関係である事だ。一方だけでは、あくまでも半分でしかない。「・・・・に歩まず。・・・・に立たず。・・・・に着かない。」を徹底することである。その決意を実行する事である。これが曖昧なら、二つ目の「・・・・主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」 を実行しても、「何をしても栄える人」とはならない。いかに聖書を知り尽くしても、主への奉仕が出来ていても、心と口唇をしっかり引き締めて管理しないと潤いのない木のように実を結べない。ならば何をしても栄える人の道に立とう。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (76)

「人の立つ位置」(1)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/11/4 1:00
† 信仰に立ちつくす。
  「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」1コリ10・12)この前後節を読むと、世の終わりに臨んでいる危機がある。私達の現在の背景でもある。信仰とは「立っている」か「倒れているか」のどちらかでもある。だから「立っていると思うもの」といわれている。どの教会でも、今礼拝を守っている人数の2倍から4倍の受洗者はおられるのである。40年も前のことだが、明治時代から続く大阪の著名なメソジスト教会を訪問した時、気さくな牧師先生が話し掛けられた。「過去からの会員名簿が一万人もあって整理しょうと思うよ」と。先祖代々信仰を継承している家系もあるだろうけれど、消息不明者がほとんどなのである。韓国では大教会に集う人がなぜおおいのか?韓国のクリスチャンが教えてくれた。大教会に行けば深い関わりを持たないでも良いからで、干渉されないことを願っているからだ。と、出入り自由でいつ教会を去っても気づかれない。果たして私達はそういう立位置をどこかで求めているのだろうか?

† 私の中身。
  パスカルは「パンセ」の中で「人間は一本の葦(アシ)にすぎず自然のなかで最も弱いものである。だがそれは考える葦である」と言った。聖書と共に読み続けた懐かしさを思い出す。現在の若者が、その存在すら知らない事には驚きでもある。数学者にして自然哲学者、物理学者、思想家、キリスト教神学者であるパスカルは人間を探究したのだ。パンセに通じれば自分を探究したことにもなる。私達人間は、人間を長く生きてきているのに本当には人間を知らない。それは自分を知らないことである。もう一つの問題はこのように「自分を知らない」まま、福音を信じているので、神の誡めと自分自身が衝突するということである。それは罪深いからとか、性格と気質の問題とかに置き換えられ、霊的に解釈される。それは間違いではないが、福音に精通することは、自分に精通することと相まって成長し完成して行くのである。聖霊の注ぎは、自分を知って神を求める人に近くあると思う。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (111)

「人生の技法」(7)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/10/28 1:00
† 信じる如くなる人生。
  「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」マルコ11・24)これほどの技法はどこにもないはずだ。しかし、直ぐに反論の声が聞こえてくる。そんな甘い世界があるはずがない。この世界を見渡せば一目瞭然である。と、しかし聖書は堂々と「信じる」事は、その通りになる。と、勧めるのである。主なる神は私達の真実の幸いを知り尽くしておられる上で、語られているのである。「宝くじ5億円が当たると信じればそうなる」と言う類いが言われているわけではない。誰でも幸せになるのは、神の御業である愛(主イエスの贖い)の中に生きることであり、その幸せになる真実は計り知れない。私達が祈り求められるのは絶大な主なる神の愛の真実があるからである。御心にかなう祈りは信じる如くなるのである。忘れて成らないことは、主なる神があなたに与える幸せに関して、不誠実な事は何一つないのである。

† 騙されない人生。
  あなたの人生が終局において「騙されていた」と知るほど悲惨なものはない。長い人生の梯子を登り切ったその頂上に何もない。褒美もなければ、得られるものもない。単なる無でもない、厳かな主なる神の声が響く「なぜ、私の与えた梯子を昇らなかったのか?」そして愕然とするのである。頂上から下る道は永遠の滅びに直行しているからである。世の中には、あまたの道(梯子)が用意されている。そして多くの人が自分好みの登りやすい梯子を喜喜として登って行くのである。聖書はその様を「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです」ピリピ3・19)主イエスも「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです」マタイ7・13)と警告された。人間の知恵は上(神)からの知恵とは違い、自分が本位にあるので罪深く的外れの道を行く。しかし主イエスを信じるなら天に繋がる梯子を昇ることである。大きな報いと永遠の生命が待ち構えている。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (196)

「人生の技法」(6)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/10/21 1:00
† 人の褌(ふんどし)で相撲を取る。
  いかにも痛快なのが「自分の」ではなく「人の」ふんどしなのである。相撲でいう「三ゆいの回し」である。今盛んにになった将棋だが、桂馬が同時に二つを取りゆく手が盤上で丁の字形になることから、ふんどしとも言う。さて、主イエスを信じて神の中に生かされることが、とても痛快なのである。世の中では持っている者と持たない者、苦労の無い者と苦労している者、強い者と弱い者がそれぞれ存在する。あたかも目に見える様に実感するのではないか?しかし、キリストにあるならば、私達はたとえどのようであろうとも不幸にならず不満に生きる事が無いのだ。それは主なる神が力強く戦って下さるので、向かう敵無しの横綱のふんどしの中にいるようなものなのだ。私達への尊い契約が私達の保証である。また、主の十字架の御業は私達を神の財産の相続人として輝かせる。私達は朽ちない偉大な財産を受け継いでいる。私達は小さな者だが、最も偉大な神の人と同じように愛されているのである。これが本当なので、このような喜び方(相撲)が出来る。私の力(ふんどし)によるのではない。主イエスの愛の帯(゠ふんどし)コロサイ3・14)の力なのである。

† 血に逃れる。
  言うまでもなく主イエスの血潮のことである。神の技法の中心は「血」をさしおいて語る事は出来ないであろう。主イエスの血潮は人類が存続する限り、父なる神は一人一人に振り掛ける事を願っておられる。何十億という現在の人間がそれぞれ主イエスの血潮を注がれて潔められ、罪の縄目から解放されるためである。十字架に力があるのではなく、主イエスの血潮に力があるのである。罪自覚し、その滅びから救われたいと願うならば「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい」マタイ3・3)そうすれば主イエスの血潮が罪を潔め刑罰から救い出して下るのである。結局、私達人間は死んでゆくものであり、神の公正な裁きの座に出て裁きを受けなければならない。漠然とした信仰生活もあるだろうし、奉仕に明け暮れた信仰生活を送る人もいるだろう。とどのつまり(いきつくところ)キリストの血潮の中を生きたかが問われるのだ。人間の功績など、キリストの血潮と比ぶる事などあり得ない。だとすれば残された人生をキリストの血潮の中に浸して、神の御心に服して生きるのが、最も賢い人とされるのではないだろうか?
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (251)

「人生の技法」(5)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/10/14 1:00
† 何もかも出てくる。
  聖書の中でも興味深い記事の一つは「もし吹き出物がひどく皮膚に出て来て、その吹き出物が、その患者の皮膚全体、すなわち祭司の目に留まるかぎり、頭から足までをおおっているときは、祭司が調べる。もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、祭司はその患者をきよいと宣言する。すべてが白く変わったので、彼はきよい」レビ13・12,13)である。腫れ物が全身を覆うことと、生肉が白く変わった場合に「きよい」とされた。幸いな人を聖書は定義する「幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は」詩32・2)しかし、咎を隠し、罪を告白しない時「・・・・御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」詩32・4、5)幸いな人となるために必要な事は、罪、咎を何もかも洗いざらい、さらけ出す事に尽きる。あたかも全身に吹き出物が現れるように,そうすれば「きよい者」と、主は宣言されであろう。

† とにかく繋がっている。
   ブドウの木はキリストで私達はその枝である。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」ヨハネ15・5)私達の問題は枝に繋がっている確信を何においているかと言う事である。主を信じている、祈っている、御言葉を学んでいる、と言うような感覚であるかも知れない。あるいは礼拝を守り、月々に什一献金を捧げている、と言うことかも知れない。これら全ては大切な繋がりの意味と内容を持っている。さて、主イエスが繋がるという技法をここで宣べておられる。第一、父が私を愛された様に私もあなたがたを愛しました。私の愛の中に留まりなさい。15・9)第二、その愛というのは私の誡めを守る事だ、私が父の誡めを守って父の愛に留まってるのと同じなのだ。15・10)第三、キリストに繋がっている証拠は、私達が「誡めを守って互いに愛し合っていること」 なのである。現在進行形で繋がり続けるために、主の教えを最善とする者でありたい。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (306)
牧師の想いカレンダー
« « 2018 11月 » »
28 29 30 31 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 1
Login

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失 |


top