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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「神の国を生きる」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/6/17 1:00
† ピンからキリまで。
 「初めから終わりまで」の幅広さが人間の持つ信仰ではなかろうか?「ピン」は一番を意味して最上という事らしい。「キリ」はポルトガル語のクロス(十字架)から来ていて、最後のもの、最低を意味するようになったそうだ。そういうわけだから信仰生活を最上の「ピン」にまで持って行きたいと思うわけである。神の国と言う概念は特別なことではなく、具体的なクリスチャンの生活として位置づけたい。信仰生活がピンからキリまであるように、同じく神の国の内容はピンからキリまである。聖書は「ピン(最上)」を目的として書かれている。そのメッセージを教会を通して聞いて受け入れているのが私達である。その実践の場が、日常の生活であり、世の中に生きることである。福音の内容が私達によって実践されるか、されないか、あるいは、その気があるのか、無いのかによって「ピンが生まれ、キリが生まれる」自分を最低のクリスチャンと思う事があっても、自らに目を留めず、主なる神の御業をたたえ、喜び感謝できるならば、上等の神の国が現されているのである。

† 日本の文化を切り崩す?
 日本人として、神の国を現す上で大切なことは何か、先日、講師が語ったことが面白かった。文化とは空気のように共通しているもので、日本人ならば常識的に同じようにしている事となる。さて、日本人の文化として受け入れている宗教行事(お盆や祭り法事など)の根底には、守り行わないと呪われる。祟(たた)りがある。という「恐れ」の縛りによって守られている事実を教えられた。また、世間体という日本人の「行わないと何か言われる」という文化も手伝う。こういう日本人文化の中でクリスチャンが共通生をどこに見つけるかが大事になる。一つは「教え」の科学的客観性にあると思う。無意識的に継承し受け入れている信仰が「小説(作り話)」 であるならば、教えがいかに優れていても真理ではない。聖書は自然科学を生み出し、科学と共存しているのが聖書の真理である。日本の若い世代に伝え、教えるべきは、科学性を伴っている真理の教えであると思う。
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「神の国を生きる」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/6/10 1:00
 † 神の国は現実の生活。
   信仰告白と伴に始まっているのが「神の国の生活」である。それは信仰生活であり、教会の会員(肢体・構成員)となることである。信仰の間もない人にとって、神の国や神の国を生きるということについて、理解が及ばないことが多い。しかし、主イエスの救いを受けた直後の人々ほど、生き生きと神の国を体現しておられるのである。主イエスから受けた愛を生き生きと感じて、人を愛そうとする。熱心に聖書を学び、生活に生かす努力をする。受けた救いの感動を友達に証詞しているのである。理想的な神の国を生きているのは意外にも救われて間もない方々なのである。このような生き生きとした信仰生活が神の国を明らかにし、日本のような未信者の国において、神の国がリアリティ(現実性・真実性)として現れるのである。幸いなのは救われた感謝と喜びを失わない生活である。また、多くの試練や誘惑の中でも、十字架のリアリティが魂から取り去られず、主の復活のリアリティが人生から失われない、これが神の国の命であり、原動力となるのである。

 † 光の王国。
   私達ビンヤードの群れは「光りの王国」と「闇の王国」の闘争(凌ぎあい)を、神学のうちに現実として位置づけている。「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」マタイ12・18)神の国は主イエスにより暗闇が支配する「この世」に介入してきたというわけである。光りの王国「神の国」は、神の権威を伴って「悪霊どもを追い出している」のであり、その事は「闇の王国」のサタンとその手下(悪霊ども)が敗北している様を明らかにしている。このリアリティが現代の「しるしと不思議の伝道(パワー・エバンジェリズム)」である。主イエスが「神の御霊によって」その著しいしるしと不思議(悪霊の追放)を行われたように、21世紀にも、神の御霊によって「光りの王国(神の国)」が、力強く前進している。まことの福音を宣べ伝えるには、悪魔の実在とその王国「闇の王国」を見据える事である「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」 ヤコブ4・7)私達は、光りの国の戦士として、闇の王国に立ち向かうので神の国が建ち行くのである。
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「良識の好奇心」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/6/3 1:00
 † 力不足の好奇心。
   恥ずかしい話だか、いまだに読めない(理解できない)聖書の講解書がある。カール・バルトの「ローマ書講解」である。牧師になって間もないころに購入したが、すぐにギブアップした。世界を変えるほどの思想書であるにもかかわらず、読む側に理解する能力も力もないということである。ところが先日、最新刊である「神学の技法」~キリスト教は役に立つ~佐藤優著の中に「教会論」キリスト教とナショナリズム。カール・バルト「ローマ書講解」を読みとく・・・・があった。これにより40年近く眠っていた「ローマ書講解」に光りが当てられ理解への道が開かれたわけである。全く予期しないことで、宝を得たような感謝を覚える。また、佐藤優氏は知性の向上法について「何を・どの様に」について教える天才のように思える。キリスト者の教養のために私は氏の著作を勧めたい一人である。さて、内容があって難解であれば、読めるようになりたいとせつに思う。長いスタンスの中にも好奇心が働いておれば、なにかを掴み、道が開かれる事に繋がるものである。

 † 良識を優先させる。
   カメラを持つ者は、レンズを取り替えながら興味あるものに焦点を合わせる。周囲がぼやけるマクロレンズで花などを撮るといっそう引き立つ。カメラの性能は恐ろしいほどの進化を遂げており、それに見合ったレンズも高価になっている。いま私達は世界第三位の経済大国の中で生きており、高級カメラと同じ性能の高い生活をしているのである。その生活は、なにに焦点を合わせて「何を」喜びとしているか?・・・・高度な生活様式の中で「何を選び」好奇心としているか?これらのことは必ず主なる神によって問われるのである。なぜなら、私達は国籍を天に持つと同時に、この世に神の国を創り出して行く使命の下に、生かされているからである。人間の最大の良識は何かと問われれば「キリスト信仰」なのである。この事で何を言われようが、クリスチャンは絶体の良識とする。その良識を持って好奇心を持つべきなのである。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」マタイ6・21)絶対の良識があるところである。 
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「良識の好奇心」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/5/27 1:00
 † おもねる気持ち。
   人に気にいるように振る舞うことは、普通にされていることでもあると思う。しかし、牧師が会衆におべっかを使った説教をし続けたらどうなるか、考えるとぞっとするものがある。人気というものは過分に気に入れられるサービスがあるからで、サービスを止めれば、また違った結果となると思う。主イエスが身代わりになって十字架の死を遂げられるのは、父なる神への忠実さ、誠実さであった。それが途切れることなく「死に至るまで」だったのである。このような福音を教会は預かっているし、語る事を求められている。教会はこの福音を信じて欲しいために働く。リーダーは福音を宣べ伝える預言者、伝道者でもあるが、人間の必要と好みに答えようと、つい人々におもねる気持ちが起こりやすい。人間の持つ原理には、自分を認めて欲しい願望があり、ついそれに答えてしまうのである。福音を預かる教会のあらゆるリーダーは、何を持って注目を勝ち取るか吟味して欲しい。主イエスを喜ばせようと誠実に生きて、力強い福音の励ましと慰めを注ぎ出せる者になろうではないか。

 † 出来ていない良識。
   今まで長い時間があったのに、出来ないままになっているのを見るのは辛い。重い気持ちになる。それは、やらばならないと解っていて、時間が過ぎてきてしまったのである。第一に、エルギーを要する事だ。精神力と体力が問題である。気候にも制約される事柄もある。一つの例は読書だ、夜はほとんど読む気力をそがれているのが私の生活ぶりである。朝を、日中をあてがわないと実現しない事が解っている。第二は、好奇心が必要である。学んでみたい、やってみたい、行ってみたい、見たり、聞いたりしたい、という旺盛さがないと、現状をそのまま保つ事で終わる。男が毎日ひげを剃るのは、ほっといたら醜い顔になる事を知っているからだ。好奇心は自分の脳みそを活性化し、怠け者にこべりついてくる垢(あか)を剃りおとす効果がある。最後に重要な事は「第一歩」を踏み出すことである。次の第二歩は、たやすく進められる。ほとんどの不可能は「第一歩が」踏み出されていない結果である。思い当たる事があるなら「第一歩を」踏み出そう。それは今だ。      
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「良識の好奇心」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/5/20 1:00
 † 偏執した好奇心。
   偏執とは、片寄った考えを頑(かたく)なに守って他の意見に耳をかさないということである。いかにも病的と思える考えに捕らわれている人がいる。また色濃く世の中の影響に染まった考えに固執して耳をかさない人もいる。私が神学生の頃、関西に住む従兄弟(イトコ)から議論を仕掛けられたことがある。彼は大学生で「ニーチェ」の「ツァラトゥストラはかく語りき~神は死んだ~」を引いて挑んできたのだ。ニーチェの「超人思想」こそ真理であり現実的であると信じていた。それでユダヤ宗教とキリスト教の偽善性を突いて、信仰を「二束三文」に片付けてきた。当時の青年に浸透していた「ニヒリズム(虚無主義)」の答えとしてニーチェが存在していたと思う。私から見れば従兄弟(イトコ)こそ偏執した考えに染まっていると思えたし、彼は私を憐れな信仰に生きる偏執した男と見たのである。私はニーチェこそ時代の科学偏執に好奇心を持った唯物論者ではないかと思う。彼が「神は死んだ」と言う背景には、1900年代の科学の発展が神の無能を証明すると思われた時代だったからだ。ニーチェの「超人」とは、自分にとって「良い悪い」という価値観を生きることである。神の「善悪」を否定することである。さて、あなたの好奇心はどちらにある?

 † 心に留める良識。
   私の成長に欠かせないことは何か?と問われれば、「心に留める内容」と答えたい。聞く事、読むことにおいて「心に留めた」ことが、聖霊に導かれ、私を形成してきたからである。心に留めるものが、よろしくないものならば、私もそのような内容の人物となるだろう。 「聞く耳と、見る目とは、二つとも主が造られたもの。眠りを愛してはいけない。さもないと貧しくなる。目を開け。そうすればパンに飽き足りる」 箴20・12-13)また、そのとき理解できないフレーズが重要である。多くの人はその時に解らないと意に留めず棄て去ってしまう。言われて解らない事や、読んで解らない事は大切である。12歳になったイエスが行方不明となったが、神殿で学者達と論じておられた。マリヤは我が子イエスの不可解な行動とその言葉を「・・・・母(マリヤ)はこれらのことをみな、心に留めておいた」ルカ2・51)とある。乳房を持って育てたイエスが、神の独り子であると認識し信じるには、解らない事を「心に留めておく」事なくしては悟ることは不可能である。聖霊は「心に留められた」真理を理解させ、悟らせて下さるからである。私達は好奇心を持ち心に多くを留めるならば、聖霊のお働きは増大するだろう。
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