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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「良識の好奇心」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/4/22 1:00
 † 好奇心は善か?
   好奇心は成長に欠かせない要素である。しかし、永い年月の中で早熟な好奇心のために幸せな人としての道を外れてしまった人々を見た。子供が大人になりたいという願望を持ち、大人の世界に好気の目を持つ事と同じように、誰にも想像力の働く好奇心は付きものである。そういった好奇心は生まれるものであって、どうしょうもない力を伴っている。それによって突き進んでしまう人がいる訳だ。私達人間の始祖であるアダとエバは非常に優れた精神を持って神に仕え、全てに満ち足りて幸せだった。善悪を知る木の実は、自分たちの良識を証明するシンボルとして誇りにも等しい存在だった。サタン(悪魔)はこの良識ある人間に「好奇心」をたきつけた。目が開かれ、神のようになり、善悪を知るようになれること、決して死ぬ事はない。と安全弁のように植え付けて、善悪を知る木の実を改めて見つめ直させた。すると「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」創3・6)そして、その実を取って食べた。好奇心は肝心な良識をくつがえし、滅びに至らせる力でもあると言うことだ。

 † 好気の思いを神に。
   モーセは奇遇な生涯を与えられた人物である。彼は良識のためにエジプトの王子の身分から一転さすらい人となり、ミデアンに逃れて羊を飼う境遇へと突き進んだ。それから40年も経った頃、羊を見守ってシナイの荒野にいた。すると不思議な炎が柴の上にあり、柴は燃えていなかった。モーセは知識のある人物であり、それに驚いて近付いて見ようとした。好奇心がモーセを揺り動かしたのである。それこそが神の求めておられたことであった。そして、いまだ聞いたこともない、厳かな神の御声を聞くのである。モーセは震え上がり、見定める勇気も失ったと記されている。主なる神は、これまでのモーセの80年の体験や知識の見解をくつがえし、神主導の世界を体験させるのであった。人から教えられた神でも、理解でも無い、主なる神との直接的なシフト(世界観)が注ぎ込まれる事になった。直接的体験をした者でなくては知り得ない真実な現実を獲得したのである。これは今日でも変わりはなく「求めなさい。そうすれば与えられます」マタイ7・7)ということである。好奇心旺盛な神の人は、主なる神の直接的な御業にふれ、御声を聞かされる。好奇心だけではなく、高潔な良識を持っ神に向かうのが良い。
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「一貫性の喜び」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/4/15 1:00
 † 曖昧な私とつき合う。
   私とは曖昧で一貫性に欠ける人間である。しかしながら、これは全ての人に共通する事かも知れない。曖昧な私なので、心して一貫性を求めるのが実情である。内村鑑三はキリスト者として、戦争に傾く厳しい社会情勢の中、信仰の一貫性を持ち続けた世界に誇れる人物である。激しい迫害の中でも彼の信仰の精神は生き続けた。私にはそれほどの力はないが、彼を思うと勇気を与えられる。曖昧とは、あるべき轍(テツ)「先人のつけた道」を歩まないことであり、、自分の弱さに迷い、混乱した行為をすることである。「君子危うきに近寄らず」はキリスト者にとって重要な事である。誘惑は、自分を曖昧にしてしまうからだ。一貫性を保ち続けるには、このような曖昧さを纏う私と、しっかりつき合って行くこと。行くべき真理の車輪のわだちが見えているのに、そこを歩まず外れ出てしまうからだ。曖昧な私に厳しくつき合って行かないと、右に左に揺さぶられ振幅が大きくなり、一貫性とは何か自分でわからなくなるからである。曖昧な私を見据える事が、一貫性をもたらすことになる。

 † 今までとこれから。
   今までを生きてきたことは、素晴らしい事である。一人一人には独自の歩みがある。ずいぶん遠回りを強いられた道のりであったかもしれない。ある人は苦労もなく直線的な歩みをしたかもしれない。聖書には、さまざまな人物の生き様が書かれている。世界の富を惜しみなく手に入れたソロモン大王もいれば、金持ちの軒下で食べ残しを待つ、全身おできのラザロもいる。そういった人々の結末を聖書は克明にしている。それは私達が自分の今までを不遇に結びつけるのではなく、感謝に結びつけ、生を与えた神を誉め称えるためである。私は2才にして太平洋戦争に巻き込まれ、激変する環境の中で押し流された。もがき続けたお陰で「真理による自由」ヨハネ8・32)に、たどりついた。苦労をする事、不遇を耐えることがなかったら、このような出合いはなかったのでは、と思う。私の場合、主イエス・キリストに勝るものは他に無い、という世界になった。「あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います」詩63・7)キリストに出会って、58年に及ぶ今まで、主なる神は真実に支えられた。残された日々は短いかもしれないが、偉大な真理の自由のために、一貫して全力を尽くしたい。
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「一貫性の喜び」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/4/8 1:00
 † 死と生の一貫性。
   先日、親しかった従兄弟の骨を拾った。彼は78才だった。心に迫られたことは、死こそ人間の現実であり、確実なものであると言うことだ。日本人は、終わり(死)から考えて生きるとか、終わりに向かって生きるという考え方はあまりしない。そういう文化背景がないと思う。死も生も、無情の中にあり「無」であると教えられ、混乱しつつ考えるのが日本人ではないか?キリスト信仰は、死と生のまことの文化を与える。宇宙万物の創造があり、まもなく完成がある。キリストの死からの復活は、私達人間の完成に道を開き、死を人間の新たな誕生日に変えてしまったのである。人間の死は、人間が完成される過程の一部に過ぎない。死は人生の新たなる出発とされたのだから、地上の人生が全てではない。死を契機に、これまでの人生に報いを与える。「栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人(私達)にも、善を行なうすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです」ロマ2・10-11)今の私達の生き様は公正な審判で計られているのである。私達の人生に一番大事なことは、死を人生の要(カナメ)として、健全に、ハッピーに受け入れることである。私の身体は死して塵(チリ)に帰るが、私は地上の人生を引き継いで新たに生きるからである。

 † 平安であり続ける。
   NHK朝の番組「わろてんか」に教えられるところがあった。どんなときにも笑う、と言うことが、どのようにできるのか? 笑えない現実の中ではどうするのか。・・・・私達は復活という真実な根拠があって、死を克服できる人生を持てるように、どんな時にも「笑う」には根拠が必要である。その、キーワーズは「人間は、どんな動物よりも愚かで、戦争をして人を殺し合う」という所。「だから憎しみ合うことより笑いが必要なんや」・・・・笑うということは知的行為であり、険悪な空気を変える積極的な平和思考であるのだ。たとえば夫婦を中心に家族が笑い合えたら円満を象徴していると言える。笑いを失った生き方は、人生の健康を損なっている結果では? 神の平安(シャローム)は、日常の挨拶の言葉とされるが、神の繁栄という意味も含んでいる。主なる神の支配下に生きる私達は、主なる神の祝福の中に過ごしているので、平安なのだ。故に「あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください」ピリピ2・18)なのである。お笑い芸人によって「笑う」事も大事だが、私達は神の平安が与える喜びを持っている。私達はその喜びをわかち合う。喜びは、絶えない潔い笑いとして、決して途切れることのない一貫性である。
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「一貫性の喜び」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/4/1 1:00
 † 喜ばしい私となる。
   誰もが「喜ばしい私」なのである。ここには誰々よりも優れているという意味あいはない。喜ばしい私であると言うことは、私の実存(ありかた)の問題である。不幸と認識するか、幸いと認識するかは本人の問題となってくる。最も幸いな一貫性は、自分自身を喜ばしく迎えられている自分にある。そういう構造になっていない人は、自覚的に喜ばしさをあまり感じて生きていないのではないかと思う? 「イエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです」ルカ18・16)毎日が天国のように楽しい(喜ばしい)幼子達は、主イエスが私達に期待されている「喜ばしい私」なのである。大人でありながら主イエスにあって幼子である「喜ばしい私」として生きられるように、主イエスは十字架を私達のために負い、私達のために墓から復活されたのである。「喜ばしい私」として生きている神の子供(クリスチャン)を見ているか? 知っているか?自分の外を見るのではなく、自分を見て欲しい。喜ばしい一貫性こそ私にあるのでは?

 † 影響されて影響されない。
   私達の生活は世界情勢や国内状況の大きなうねりの中で、変化が起こり今まで順調であったものが後退に転じることがある。産業や経済のことばかりではなく、宗教界(霊的世界)にも共通している。日本の極度の高齢化は、勢い宗教を斜陽産業と言わせている。肌身で感じないけれども現実的な事実である。そういう環境下で教会の有意義な活性化のために、いろいろな議論や方策のセミナーも開かれてきた。確かに多くを私達は受け入れてきた。一方、私達は影響されて影響されないもの、私達の独自性を持つようになっている。それを一貫性と位置づける事が出来る。個々の教会には築かれてきた歴史の中で持つ独自性がある。それを自覚してより発展的に宣教体質に繋げて行ける事が望まれる。その教会は多くの影響を外から受けるが、変わることのない独自性を発展させる事に重きをおくのである。教会はさまざまな刺激や有益な影響を必要とするが、持っている独自性を失うのではなく強化し創造性をさらに発展させるようにしてゆくことである。喜ばしい教会の在り方だと思う。
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「一貫性の喜び」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/3/25 1:00
 † 倒れないように生き続ける。
   「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」1コリ10・12)大切な現実的な神の言葉である。もちろん聖霊は真理に生きている人々に語りかけている。喜びに生きる一貫性で大切なのは「気をつけなさい」とあるように、倒されてしまう事実があるという認識をしていること。それは、常に自己点検していることが大切だと言われている。「立っていると思う者は」とあるように、信仰を道として、そこを歩み続けている私達だからである。そうではなく、自分はそこに立ってはいないと思う者もいるということも含まれるだろう。しかし、そういう人々に、ここでは語っていない。弱い、強い、が言われているのではい。主イエスによって、折角与えられた喜びの生活を一貫して生きるために「ですから・・・・」と言う風に励ましを与えているのである。信仰の喜びと勝利の一貫性を生きる事が私達だからである。前節(9-11)を読むと「ある人達は主を試みた」「ある人達はつぶやいた」そのために倒れ、滅ぼされたという事実を示して「倒れないように気をつけよ」と、言う訳である。霊的一貫性の中で、これほど重要なことは無いのである。互いに励まし合う、信仰を喜び合う事が教会である。

 † 挑戦する相手。
   オリンピックで連続金メダルを獲得した羽生結弦さんが口にされる言葉で「自分に挑戦する」を良く聞く。世界には競い合う相手が大勢いるが、あえて戦う相手は自分であると言う訳である。マリナーズに復帰したイチロー選手を見ても、彼の戦っている相手は「自分自身」である。目標というものは自分の外側にあるように思われるが、そうではなく自分の内側にあるもの、自分に挑戦してゆくものなのだ。これを一貫してやっている、それだから人のやらないような努力をする。挑戦相手が自分だからである。仕事への挑戦でも、成績への挑戦でも、収入のための挑戦でもない。全ては自分への挑戦としているのだ。年を取れば体力も衰えるだろうし、気力も長続きしないかも知れない。良いときも、悪い時も、自らに挑戦して生きる事には悔いが無いはずだ。これは聖書的で間違いないことである。挑戦とはあきらめないことを示している。最も輝かしいキリストの身たけ(エペソ4・13)にまで達するには、これまでよりも、これからの自らへの挑戦にかかっているのである。
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